【楊枝秀基のワッショイ!スポーツ見聞録】こんな日が来ることを想像できただろうか。阪神の春季キャンプが行われている沖縄・宜野座。サブグラウンドで行われていた特守のノッカーは藤本敦士内野守備走塁コーチ(45)で、選手へのお手本として捕球するのが鳥谷敬臨時コーチ(41)という光景だ。

 2003年、藤本は初の規定打席に到達し打率3割1厘を残した。「恐怖の8番打者」と恐れられ星野阪神の正遊撃手として18年ぶりのリーグ優勝に貢献した。そして、その年のドラフト自由枠で入団してきたのが早大・鳥谷だった。次期監督が早大OBの岡田監督でもあり、04年開幕の遊撃スタメンが鳥谷だったことは物議を醸した。

 藤本はオープン戦で打率3割6分と結果を残していた。当時、一部の関係者の間では「攻守において藤本が一枚上。本当の意味で競争というのならおかしい。大学の後輩を優遇していると捉えられかねない」などの意見が飛び交った。

 藤本コーチは当時をこう振り返る。

「もちろんショートとして負けていない自信はありました。でも僕自身がチームに求められているもの(理想の正遊撃手)にフィットしていないかなという気持ちもありました。周りには『3割打っているのに(なぜ鳥谷が開幕遊撃)』と言ってくれる人もいましたが、僕は03年のホームランがゼロ。トリなら2桁本塁打も期待できるポテンシャルがありましたからね」

 04年シーズン中に藤本はアテネ五輪代表として現地に派遣された。帰国後は打撃不振に陥り遊撃の座を鳥谷氏に奪われる状態も経験した。そして翌05年は岡田監督から二塁コンバートを命じられた。

「ショートへの未練も正直、ありましたよ。でも、野球選手は試合に出てナンボ。『お前はいらない』と言われたわけではなく、セカンドを守れと言ってもらえてるんだから切り替えて、二塁のレギュラーを取りにいきました」

 藤本、鳥谷の二遊間コンビはハマった。「二塁側から見ることで、どういう動きや送球をしたら守りやすいのかなど考えましたし、声をかけ合いながらプレーしました」。05年はそろって球宴にも出場し、2年ぶりのリーグ優勝も経験した。

 時を経て。現在の虎を強くするべく藤本はコーチ、鳥谷は臨時コーチとして同じグラウンドに立った。第3クール初日の9日から11日までの3日間、コンビは復活し木浪や小幡、中野らを中心に極意を伝授した。

 鳥谷氏が「自分の形というのを作って人に伝えられるようにすればいいと思う。(3日間の指導を)自分の形を作ることのヒントにしてもらえれば」と話せば、藤本コーチは「いろんな発想から選手自身が考えて、自分の引き出しを少しずつ増やしてほしい。僕もトリの話を聞いて勉強になった。選手同士で声をかけ合いながら強いチームに育ってほしい」と思いを語った。

 再び岡田阪神を頂点に立たせるため。「藤本・鳥谷コンビ」の復活。役者がそろった気持ちになった。