【武藤敬司の軌跡(31)】全日本プロレスを退団し、新たに設立したW―1では、会場のビジョンを使ったあおり以外にも新しいことにいろいろと取り組んだんだ。その一つが2015年10月に立ち上げた「プロレス総合学院」だった。

高木三四郎CEO(前列右)とプロレス総合学院の開校を発表(15年8月)
高木三四郎CEO(前列右)とプロレス総合学院の開校を発表(15年8月)

 W―1は、東京・新大久保の「GENスポーツパレス」内に立派な道場があったからね。そこにはもちろん、プロレスのリングがあって、同じ施設の中にはK―1のジムもあるし、総合格闘技のリングもあって…とにかく充実していたよ。だから「その環境を生かさない手はねえだろ」ってことだった。

 取り組みとしては良かったと思うよ。実際、応募はいっぱい来たよ。月謝を取る「学校」なんだから、才能があろうがなかろうが、一生懸命に教えたよ。カズ・ハヤシや近藤修司が手取り足取りでやってね。卒業生の中には、今もプロレスラーとして頑張ってるやつもいっぱいいるよ。実は「プロレスの専門学校をやりたいな」っていうのは1990年代後半からあったんだ。とある専門学校の関係者とのつながりがあって、それで「学校を立ち上げようか」となったことがあった。当時は頓挫したけど、約20年越しに実現した形だね。

 そんな中、17年2月に旗揚げしたのが「プロレスリング・マスターズ」だな。すでに引退されている先輩レスラーを含めたベテランの方々に改めてリングの上で活躍してもらうイベントでね。要は、W―1がドンドン新しい方向に向かうから俺は逆に古い方に全振りしたんだ。W―1はカズや近藤に任せて、こっちは思いっきり俺のアイデアでやった。正直、本戦よりそっちを一生懸命やってたよ(苦笑い)。

 あれは、楽しかったなあ…。俺ももう「マスターズ」の年齢じゃん。そういう中で先輩マスターズのみなさんを見たら「頑張ってるな」となって、エネルギーをもらえるわけだよ。で、何がいいってね、出ている先輩たちがみんな楽しそうなんだよ。それが本当にうれしかったな。

 けどまあ、当然なんだけど女性ファンはほとんどいなくて、会場はオッサンばっかりだった(笑い)。マスターズをまたやりたいかって? そうだなあ。ただ、あれって俺が出なきゃ成り立たない気もしてな…。ほかに仕切ってやっていく人っていねえじゃん。だからどうしたもんかなとは思っているよ。

 ただ、このころは、ヒザのコンディションがどんどん悪化していてね。だから結局、W―1ではこれという“作品”を残せなかったよ。とにかくヒザがキツくて…。かなりギリギリの状態で試合をしていたんだ。そんな中、いよいよ俺は大きな決断を迫られることになるんだ。代名詞でもあったムーンサルトプレスとの「お別れ」だよ。

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