元阪神のランディ・バース氏(68)がエキスパート表彰で殿堂メンバーに選ばれた。関西を熱狂させた1985年の阪神日本一に大きく貢献し、2度の3冠王に輝いた「NPB史上最強助っ人」。そんなレジェンドの殿堂入りを記念し、全3回でお届けする「ランディ・バース伝説」のラストは、愛息を襲った悲運と〝まさかの解雇通知〟を元通訳の証言で振り返る。

【ランディ・バース伝説♯3】1988年はバースにとって受難の年だった。前年のチームは優勝からわずか2年で最下位。村山実新監督が若手を積極起用するなど巻き返しに張り切ったが、5月に球団を大激震が襲った。

 神戸にいたバースの8歳の長男・ザクリー君の体調に異変が生じ、5月6日に緊急入院。後に脳腫瘍による水頭症にかかっていることが判明し、緊急手術を受けた。ザクリー君は3月にもアメリカ滞在中に体調を崩して入院し、開幕前のバースが緊急帰国して看病した経緯がある。度重なる悲運に不安を募らせ、後悔しないためにも世界的権威の専門医がいるカリフォルニア州立大学医学部付属病院で再手術を受けさせること選択する。

 22試合で2本塁打と奮わないまま、5日の試合を最後に欠場を続けたていたが「父親としてそばにいてやりたい」と訴え、自分もザクリー君とともに帰国することを決意した。大黒柱に離脱されてはチームにとって一大事。話し合いの末、球団側は「5週間後の6月17日まで戻ってきてくれ」と期限を決め、バースは5月14日に医師を同伴させて息子と帰国した。

 手術は成功しても治療に時間がかかり、すぐに息子の元を離れられるはずもない。約束の期限を過ぎてもバースは戻ってこない。関係者が渡米しても連れ戻せず、球団は次第に態度を硬化させていった。さらに球団と交わす契約書に「家族が病気になった場合に治療費を球団が負担する」との条項があるにもかかわらず、球団が保険に加入していなかったことが判明。当時のアメリカの治療費は日本の10倍以上とされ、脳腫瘍が完治するまでそれこそ何年かかるか分からない。多額の治療費負担のリスクが生じ、両者の話し合いは泥沼化していった。

 ザクリー君は放射線治療で腫瘍が小さくなっていたが、看病を優先させたいバースが再来日するメドは立たず、業を煮やした球団は6月27日、サンフランシスコに滞在していたバースに契約解除を通達。通訳だった本多達也氏は「午前3時に僕が電話しました。つらかったですね。他に英語を話せる人はいないんか、誰かやってくれ、と思いました。彼にとっても解雇通達はまさかだった」と述懐している。

バースと愛息ザクリー君
バースと愛息ザクリー君

 2度の3冠王を獲得した史上最強の助っ人は、来日6年目の5月5日の試合を最後にグラウンドに帰ってこなかった。球団が保険に入っていたら、もっと気長に再来日を待てたかもしれない。解雇後の7月には球団幹部が東京都内で身投げする悲劇も起きた。騒動による心労とも見られ、バース問題は球団に暗い影を落とした。

 解雇通達後も治療費と2年300万ドル(約4億8000万円=当時)の契約を結んでいた年俸の支払い問題で両者の話し合いが続き、和解したのは9月下旬。ザクリー君の容体は安定し、無事に故郷のオクラホマの自宅に戻った。一方で村山阪神は主砲離脱の影響で2年連続の最下位に終わり、オフには同じく85年Vの功労者だった〝ミスタータイガース〟掛布雅之も引退するなど、荒波の1年だった。

 34歳でよもやの退団となり、プロとして志半ばのバースにヤクルト、ダイエー、中日が興味を示した。ヤクルトはバースの入団時の安藤統男氏がヘッドコーチを務めていた関係で積極的とみられていたが、実現には至らず。特別な事情で退団に追い込まれた選手を自由契約だからといって、簡単に獲得できるものではなかった。メジャーからもめぼしい話はなく、数か月間はフロリダのシニアリーグでプレーしている。

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野球殿堂博物館は13日に今年の殿堂入りメンバーを発表し、エキスパート表彰で元阪神のランディ・バ...

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【1ページ目】【ランディ・バース伝説】ついに殿堂入り!史上最強助っ人を生んだ「吉田義男の言葉」と「長崎啓二のバット」 | 東スポWEB

 事実上の引退となったバースはオクラホマで兄と牧場経営、レストランの経営に乗り出すが、そこから驚くべき〝転身〟を遂げる。2001年に地元のロートン市議選に出馬して当選。政治に興味があったわけではないが、現役時代から人格と落ち着きぶりを知る古巣の関係者らは「彼ならできる」とうなづいた。

 04年にはオクラホマ州議会の上院議員選に出馬して当選し、そこから2019年まで4期連続で務め上げた。福祉政策などに取り組み、年間500もの法案を通している。ただ「日本の国会議員と違って儲からない」とボヤいていたという。

 日本を愛し、毎年のようにイベントやOB野球で来日を続けた。阪神の組閣に名が挙がったこともあったが、一度も実現はしていない。不本意な引退から35年。1986年にマークした打率3割8分9厘の日本記録は、今だ誰も踏み込めない境地だ。殿堂入りでその名は永遠に称えられる。

1985年の「伝説のバックスクリーン三連発」記念イベントに揃ったバース、掛布、岡田(左から)
1985年の「伝説のバックスクリーン三連発」記念イベントに揃ったバース、掛布、岡田(左から)