【石毛博史 火消しは任せろ(2)】1992年は大きく飛躍でき、自信につながりました。シーズン後には日米野球にも投げ、マリナーズのケン・グリフィー・ジュニア、タイガースのセシル・フィルダーから三振を取った。メジャーリーガーだろうが関係なく、シーズンの勢いのままに向かっていった感じですね。今ほど世間的にメジャーへの関心がなかったので反響もあまりなかったですけど(笑い)。自分的にもすごいことをしたと思わなくて、普通の助っ人外国人に投げるのと変わらなかった。その時も宮田征典コーチの教え通り、淡々と投げることを実践しましたね。
93年には長嶋茂雄新監督が就任され、そこで僕の起用法が少し変わってきたんです。セーブがつく場面での登板が増え、いわゆる守護神的な役割になっていきました。48試合で6勝5敗、30セーブ、防御率2・96で最優秀救援投手のタイトルも取らせてもらうわけですけど、ストッパーとクローザーって違うと思うんです。僕は相手の勢いを止めるストッパーという思いでやってきた。クローザーは最後に試合を締めくくる。それは誰でもよかったんじゃないかな、とも思うんです。
6回途中だろうが、7回だろうが、そこで自分が出ていって勢いを止め、そのまま最後まで投げるか、誰かが締めてくれれば…。それは当時から思っていました。その意味では「勝利の方程式」と言われたセットアッパーの橋本清さんが僕の後でもよかったんです。橋本さんが勢いを止めた後で僕が最後に1イニングだけ投げるというのは…微妙な気持ちもありました。僕は締めるだけ。それなら橋本さんが最後まで投げてもいいし、僕が最後に逆転されることもありましたし…。セーブ王を取ったといっても、お膳立てしてもらって投げてセーブ王を取らせてもらっただけ。そこがロングリリーフで投げていた藤田元司前監督と長嶋さんとの使われ方の違いですね。
夏には初めて球宴に選ばれました。パ・リーグのことをあまり知らなくて自信満々でマウンドに上がったら清原和博さんと佐々木誠さんにホームランを打たれました。清原さんをフルカウントに追い込み、あえてアウトローの角にまっすぐ149キロを投げたら右中間の中段まで運ばれた。やっぱすげえなって(笑い)。佐々木さんには初球、インローの149キロを右翼上段に放り込まれた。
自信満々で思ったところに思ったボールを投げたのに…セ・リーグではなかったことです。上には上がいることが分かったし、自分もまだまだ。打たれて勉強になったし、もっとキレをよくしたい、コントロールの精度を上げたいという思いになりました。球宴出場は一度だけだけど、いい経験でした。
94年は中日とデッドヒートとなり「10・8 国民的行事」になりました。
☆いしげ・ひろし 1970年7月13日、千葉県銚子市出身。市銚子高から88年のドラフト外で巨人に入団。92年にリリーフ投手として頭角を現し、52試合で防御率1.32、16セーブ。93年は30セーブで最優秀救援投手を獲得。94年もリーグ最多の19セーブ(タイトルはヤクルト・高津)を挙げて優勝に貢献した。96年オフにトレードで近鉄に移籍。先発、中継ぎとして奮闘し、2001年にミラクル優勝。03年には星野阪神でも優勝を経験した。05年に引退。その後は独立リーグで指導を続け、現在は富山の社会人チーム「IMFバンディッツ」の投手コーチを務める。












