【石毛博史 火消しは任せろ(1)】1993~94年の長嶋巨人で「勝利の方程式」としてフル回転したのが石毛博史氏(52)だ。時にピンチを背負う「石毛劇場」でファンをハラハラさせながらも、表情ひとつ変えずに最後はきっちり試合を締めくくる。キレのある速球と縦のスライダーを武器に2年連続最多セーブ、94年には悲願の日本一に上り詰めた。その後は“いてまえ”近鉄、星野阪神でも優勝を経験した“優勝見届け人”がポーカーフェースの裏側を明かし、アマチュア指導への思いを語った。
巨人のストッパーとして藤田元司監督、長嶋茂雄監督に使ってもらい、1993年に最優秀救援投手を獲得し、94年には日本一になることができました。橋本清さんがセットアッパー、僕が抑えで活躍し、長嶋さんが「橋本の橋と石毛の石で、石橋を叩いて渡る勝利の方程式だ」と言ってくれたんです。
僕は宮田征典投手コーチにリリーフとして英才教育されてきました。もともと右ヒジが“野球ヒジ”でまっすぐ伸びず、爆弾があると思われ、ロングイニングを投げれないんじゃないのか、と勝手に思われていたんです。でもそんなことはない。痛みも危険性もない。二軍コーチの宮田さんに「異常なんだけど、石毛の中では正常だ。ショートイニングでリリーフに向いている。それならスピードも生かせる」と…。巨人のリリーフで「8時半の男」として活躍された宮田さんに育てられたんです。
入団2年目の90年に二軍で救援投手のタイトルを取り、3年目に一軍に呼んでもらえた。藤田監督の3年目。リリーフで毎日のように投げていた鹿取義隆さんと角三男さんが移籍し、一軍に抑えがいない状態になっていたんです。春のグアムキャンプに呼んでもらえたんだけど、3年目だったんで「まだ早いかな」とも思っていたし、マイペースで調整していたら他のリリーフ候補がケガをして僕が残ったんです。
リリーフとは何ぞや…。宮田さんからはずっと「感情を出すな」「表情を読まれるな」「ガッツポーズをするな」「常に淡々としていろ」と言われ、何を考えているのか分からないようにすることを心掛けました。打者との駆け引きで相手の呼吸まで見る。息を吸った時に投げる、吐いた時に投げるとか…。宮田さんも現役時代にそこまでやられていたんです。人間なんで思わず「ヨシッ」と思うことはありますけど、出しちゃいけないと…。
勝っても負けても次の日に試合がある。先発投手と違うんだ、という意識を教え込まれました。性格的に淡々としていて落ち着いているタイプなので向いていたのかもしれません。そういうことも見抜いてくれていたと思います。それに僕ってテンションが低くても急にエンジンをかけられる。出番が来たらスイッチが入ったんです。
その年は初めて一軍で23試合、翌92年は52試合で使ってもらい、防御率1・32、123奪三振と結果を出すことができた。でも飛躍できた感覚がそこまでなかったかな。今のクローザーと違って先発が5回まで投げて6回から僕が行って最後まで投げるとか、ロングリリーフも経験し、毎日投げることが楽しかったですね。
93年に長嶋新監督が来られ、僕の起用法が少し変わってきて、セーブのつく場面で1イニング、2イニングとか、イニング数が減ってきたんです。いわゆる守護神的な立場ですね。
☆いしげ・ひろし 1970年7月13日、千葉県銚子市出身。市銚子高から88年のドラフト外で巨人に入団。92年にリリーフ投手として頭角を現し、52試合で防御率1.32、16セーブ。93年は30セーブで最優秀救援投手を獲得。94年もリーグ最多の19セーブ(タイトルはヤクルト・高津)を挙げて優勝に貢献した。96年オフにトレードで近鉄に移籍。先発、中継ぎとして奮闘し、2001年にミラクル優勝。03年には星野阪神でも優勝を経験した。05年に引退。その後は独立リーグで指導を続け、現在は富山の社会人チーム「IMFバンディッツ」の投手コーチを務める。












