1日に亡くなった〝燃える闘魂〟アントニオ猪木さん(享年79)は、1972年1月に新日本プロレスを設立。現在まで続く「キング・オブ・スポーツ」の礎を築いた。歴代プロレス担当が燃える闘魂を振り返る追悼コラム第7回は、現新日本担当記者が猪木さんと新日本、〝14年戦争〟の舞台裏を明かす。
【さらば燃える闘魂7】
新日本プロレス旗揚げ50周年のメモリアルイヤーに、団体創設者のアントニオ猪木さんが亡くなった。新日本の現役選手・関係者が幾度となく熱望してきた猪木さんの古巣マット再登場はついにかなわなかったが…。2006年に入社し、09年から新日本プロレス担当になった記者の感覚では、猪木さんと新日本の関係は「険悪」のイメージが圧倒的に強い。
「暗黒時代」と呼ばれる混乱期に生まれた両者の溝は深い。05年に猪木さんが保有していた新日本プロレスの株式51・5%をユークスが取得し親会社になると、翌年には全株を売却。猪木さんは06年7月の札幌大会を最後に新日本の会場から姿を消し、07年には新団体「IGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)」を旗揚げする。
IGFと新日本の関係は当然、芳しくない。旗揚げ発表直後に、新日本社長だったサイモン・ケリー氏が社長職を辞して合流。08年2月IGF有明大会には当時新日本のIWGPタッグ王者だったトラヴィス・トムコが電撃参戦するなど、引き抜き合戦の様相まで呈してくる。
新日本からは09年9月に時のIWGPヘビー級王者・中邑真輔が「イノキー! 旧IWGP王座(※初代ベルト)は俺が取り返す!」と、引退した師匠に〝対戦要求〟し物議を醸す。これは猪木さんへのアレルギーは認めた上で、団体創設者が築いた歴史そのものにまでふたをしようとする団体サイドに対する、中邑なりの抗議の意味も込められていた。
しかし当の猪木さんは「ホラ吹くにもホラ吹ける状態じゃないから。オレも引退してるじゃん。そうだ、そうだって感じにはならんでしょ。まあ、いいじゃん。いろいろアピールしろよって。オレを利用してもらって構わないから」と柳に風。IGFサイドが中邑に参戦を呼びかけると新日本側も態度を硬化させ、その後は進展を見ることはなかった。
互いに無視できない両団体の緊張関係はしばらく続く。記者もあるゲノムファイター…後の某市議会議員の挑発的な発言をそのまま記事にしてしまい、新日本幹部に呼び出され激怒されたことがあった。困ったものだ。
12年に新日本の親会社がブシロードに変わっても、猪木さんとの関係は変わらなかった。ひと言で表すならば「触らぬ神にたたりなし」。アレルギーは依然として強く残り、その名前はタブーとされていた。それでも最後の最後に両者が歩み寄りを見せたのは師弟の絆、関係者たちの強い信念、そして猪木さんの器の大きさがあったからだと思う。大きなキッカケの一つは20年1月、かつて猪木さんの付け人を務めた獣神サンダー・ライガーの引退だった。
ライガーの引退にあたり、一部の関係者たちは師匠である猪木さんからのVTRメッセージをもらえないか奔走する。田中ケロ・リングアナウンサーの仲介もあり、19年の暮れに撮影が実現した。当時は猪木さんのVTR撮影は一部の団体幹部しか関知しておらず、〝反・猪木派〟から声が上がれば、団体内で大きなトラブルになる可能性もあった。
だが撮影に向かった関係者たちには、タブーを侵してでも「雪どけ」を実現させたいという強い思いがあった。当時から猪木さんの体調不良は業界内でささやかれていた。ここで猪木さんと新日本の壁を取り払わないと一生後悔すると考えていた。撮影関係者の一人は「本当にこのままでいいのか、という思いはやっぱりありましたよ。後で『誰がやったんだ』と言われたら責任を取る覚悟もありました」と振り返る。
そんな関係者たちの決意を知ってか知らずか、猪木さんは自然体で実に14年ぶりとなる新日本からの仕事を受け入れてくれた。「いつかまた会場に来てください」とお願いすると「考えておくよ」と答えたきり、その後は約30分間にわたり水プラズマについて熱弁を振るっていたという。
かくして猪木さんは20年1月のライガー引退セレモニーで14年ぶりに新日本の会場に〝登場〟することになる。まさかのサプライズに、ライガーも感激。さらに翌2月にオカダ・カズチカが猪木さんの名前を出し、次は会場に来てもらいたいという動きが団体内でも加速していく。また、19年8月に死去した妻・田鶴子さんも実は、猪木さんに最後は新日本に戻ることを望んでいたという。
多くの人たちの悲願だった猪木さんの来場は結果的にかなわなかったが、旗揚げ50周年のメモリアルイヤーとなる今年の1月4日東京ドーム大会でもVTRで登場。「新日本プロレス50周年、おめでとうと言えばいいのかな。この前、オカダ選手とインタビューした時に、もう1回新日本プロレスのリングに上がってくれと。でも今、何とか1日1日前進して回復に向けて頑張っています!」とあいさつすると「1、2、3、ダーッ!」で締めて会場を盛り上げた。9月1日からは終身名誉会長に就任していたことも団体から発表された。
新日本プロレス50年の歴史はまさに波乱万丈で、選手の大量離脱に見舞われることもあった。だが、当時の猪木さんは泰然自若で「川は何本にも分かれるけど、最終的には海に出るんだ」と語っていたという。猪木さんもまた、最後は新日本という海に戻る運命だったのか。いやもしかしたら猪木さんそのものが海であり、新日本が最後の最後に創造主の元に戻ってきたのか…。一記者の感覚では、もうどっちがどっちなんだかよく分からないくらい、とにかく猪木さんはスケールの大きい人だった。合掌。
(新日本プロレス担当・岡本佑介)












