【ダンプ松本の壮絶人生「極悪と呼ばれて」(5)】1979年4月、私は夢だった全日本女子プロレス入門を果たす。
この時は実に3000人の応募者があったと聞く。しかし入門してもプロテストに合格しなければデビューできない。私は家が東京近郊のため入寮は認められず、熊谷から目黒の道場まで通うことになった。朝7時に家を出ると9時からお昼まで目黒駅前の本屋でバイト、午後から練習生の合同トレーニングに参加。夜9時に熊谷に帰るという生活が続いた。この年はプロテストも受からないまま、通いの生活が続いた。
この時期、支えになったのはバイトの合間に読んだ人気マンガ「リングにかけろ」(作・車田正美)だ。貧乏な家の男の子がプロボクサーを目指す姿に、自分を重ねては励みにしていた。そのうち宇宙やら怪獣が出てくるようになると読むのをやめるんだが、まさか後々、自分がホンモノの“怪獣”に化けるとは思いもしなかった。
まだ10代だ。想像もつかないだろうけど、恥ずかしがりやの部分もあった。夜8時過ぎにおなかがペコペコになって目黒から上野まで向かい、高崎線に乗り換える時、立ち食いそばのいい香りにつられた。一気に平らげるんだけど足りない。だけどお代わりするのも恥ずかしいから、一度出てから着ているシャツを裏返しに着て、もう一回入るんだ。そんなもんすぐバレるに決まってる。お店の人もギョッとしていたけど、よく考えれば逆にずぶといよな。
入門した年の暮れ、営業部に回された。普通免許を取っていたので、宣伝カー要員にされたのだ、普通なら死刑宣告にも聞えただろう。でもクビにならない限りはデビューの可能性がある。しかも営業部員としてようやく入寮を認められ、給料も7万円もらった。デビューしても5万円の時代だ。やっと実家を出た私は、どデカイ音で「いよいよ本日~、いよいよ本日~」とスピーカーを鳴らしながら、宣伝カーで全国を回った。合間に練習も続けた。営業で一生を終えるつもりはなかった。
警察のお世話になったこともある。東京から広島まで10時間以上かけてたどり着いたら、真夜中に山道でパンク。困り果てて警察を呼んだ。「全日本女子プロレス」と派手に書かれた宣伝カーを見ると「警察の寮に泊まりなさい」とパトカーで送ってくれたのだ。まだ19歳の未成年だったし、会社の知名度もあったからな。クラッシュギャルズと抗争をしている時代だったら、パトカーでひかれていたかもしれねえな。(笑い)。
そして入門から1年後の4月、私はようやく4度目でプロテストに合格。それでも「ダンプ松本誕生」までは、まだ4年の期間を要することになる。












