【長嶋清幸 ゼロの勝負師(1)】日本球界初の「背番号0」男・長嶋清幸氏(60)は無類の勝負強さと好守で1980年代の広島黄金期を支えた。84年には衝撃の2戦連続サヨナラ弾、阪急との日本シリーズでは3本塁打の大暴れで“ミラクル男”の本領を発揮し、日本一に貢献した。選手、指導者として5球団を渡り歩き、古葉竹識、星野仙一、落合博満、野村克也ら多くの名将のもとで野球を学んだ。現在はカレー店オーナーとして腕を振るう「マメさん」が毒舌全開で、やんちゃ野球道を語る。
プロ3年目を終えた1982年オフ、俺の背番号は「66」から「0」に変わった。背番号変更は現場とフロントの意向であって、選手の意見でどうこうなるもんでもないけど「そろそろ軽いのにしようか」という話をもらってね。当時のレギュラーのステータスは1桁背番号。でも広島のすごいメンバーを考えたら1桁番号なんて空いてない。10~20番台もいい投手がつけているので無理だし、球団が候補を出してきた数字もピンとこなくて…。
たまたま自分の頭の中で「0」という数字があった。俺は当時、広島市西区三篠にあった独身寮の三省寮で電話番をしていて、公衆電話をかけるときも市外局番は0から始まるでしょ。「0って数字なのか、数字じゃないのか…」なんて思っていた。そんな時に、古葉竹識監督に「0ってダメなんですか?」って聞いたら「球団に聞いてみるわ」と。それで連盟にも確認してくれてOKになったんです。
でも自分の中に一抹の不安はあった。「0」ってちょっと不吉でしょ。ヒットゼロとか…。そのころメジャーリーガーのアル・オリバー(元エキスポズ)が「0」をつけて2冠に輝いたのを知って「メジャーでいるんならいけるんじゃねえか。マイナス思考になる必要はない」と思えるようになった。
翌83年から日本初の背番号「0」選手になるわけだけど、春季キャンプでは首が痛かった。たまたまなのか、チームのスローガンが「ゼロからのスタート」で。カメラマンからポーズばかり取らされるんだけど、全部背中を向けて「0」を見せて首だけ振り向くんだもの。周囲の反応もよくて先輩たちに「突拍子もないことをやるお前らしいわ」って。同時に1桁番号というステータスの中に入れたことで気持ちが引き締まった。
4年目を迎えるその年はすごく期待をかけてもらっていた。著名な評論家からも「長嶋の技術なら首位打者とってもおかしくないぞ」というくらい太鼓判だったし、打撃に関しては申し分ないぞ、と。そのかわり守備は12球団一、ヘタだったけど。静岡自動車工高時代から外野を守っているだけで、打撃のことしか考えてなかったもん。プロになって外野手の動きとか、ズブの素人でしたから。
打撃で注目され始めたのはきっかけがあった。ドラフト外で入団しているし、最初は相手にもされなかった。ドラフト1位が府中東の片岡光宏、2位が広島商の永田利則、3位が山形南の滝口光則、4位がPL学園の山中潔。周りはどんな高校の選手かわかっているし、4人はやっぱりかわいがられる。俺なんか自動車工高だから「どこや? 教習所に野球チームあるんか」「教習所にノンプロあるんか」って言われたほど。そんな俺に注目してくれたのが、あの偉大な先輩だった。
☆ながしま・きよゆき 1961年11月12日、静岡県浜岡町(現御前崎市)出身。静岡県自動車工業高から79年ドラフト外で広島入団。83年に背番号0をつけて外野のレギュラーに定着し、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。84年9月15、16日の巨人戦では2戦連続のサヨナラ本塁打を放って優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでは3本塁打、10打点の活躍でMVPに輝く。91年に中日にトレード移籍。93年にロッテ、94年から阪神でプレーし、97年に引退。その後は阪神、中日、三星(韓国)、ロッテでコーチを続けた。2020年に愛知のカレー店「元祖台湾カレー」のオーナーとなる。












