【ネット裏 越智正典】長野放送のブンちゃん塚本勝司がミニアルバムを送ってくれた。定年後、14年前に逝った奥さんを偲ぶように、夏は花火大会を撮りに行っているが、冬は支局長を務めた県内の町々に挨拶に行っている。

「飯田市に行って来ました。代々、由緒ある商家で栄えている町です」。オールドファンは昭和29年のセンバツでちいさな左腕光沢毅らの活躍で全国優勝した飯田長姫を思い出す。2回戦から登場の第1戦だったが、勝つとまだ優勝していないのに実況アナが叫んだ。

「飯田長姫、優勝!」。センバツ放送史の1コマである(決勝1対0小倉)。

「帰りに高森町の高台にある、高森温泉『御大の館』に寄って来ました。高森町出身、明治大学島岡吉郎監督の功績をたたえて名付けられました。二階は島岡監督の数々の記念品を展示したギャラリーとなっています」

 御大は素人監督などといわれたが、改めてノックの構えを見てみると、セ・パで首位打者になった江藤慎一と同じである。一心ゆえであろう。江藤は日鉄二瀬の濃人渉監督に臨時雇いで採ってもらうと、毎朝ハダシでグラウンドに立ち、ボタ山に向かってバットを構える練習をしていた。それから「配給所」で米俵をかついで家々に届けていた。

 私が御大に面識を頂いたのは昭和28年秋、復員した戦艦金剛の主計長、海軍主計大佐の先輩に「政務参謀だったのに島岡という男がおる。人物だ。一度挨拶しとけ」。虎ノ門からすぐの佐久間町のお住まいにお供をした。御大は自分で酒をあたため先輩をもてなした。私も頂いた。

 翌朝、御大はギコギコと音が出る自転車で深川平久町の借りグラウンドへ。それから隅田公園でもノック。「アヤ」は不思議である。ずうーっとご指導を頂いていた中等(高校)野球ノーヒットノーラン第1号投手、市岡中、早大、東洋高圧北海道砂川監督、松本終吉先輩から電話がかかって来た。

「島岡君からワセダを倒すにはどうしたらいいか、電話がありましてね。飛田(穂洲)先生に相談すると“ぜひ行きなさい”。これから和泉町のグラウンドへ出かけます。一緒にいらっしゃい」。着くと、立教好村三郎、法政成田理助、慶応上野精三、東京六大学のネット裏の先輩が同じ電話で集まっていた。グラウンドに笑顔が咲いていた。

 アルバムに史料があった。御大への辞令である。

「 島岡吉郎
明治中学嘱託ヲ命ス
昭和二十二年七月一日
明治大学付属明治中学校
明治大学      」
 御大は昭和25年夏、明治高(学制改革で高校に)を率いて東京代表で甲子園へ(甲子園出場計3度)。25年夏の投手、大崎三男(明治大、昭和30年阪神)は「御大は進駐軍の兵隊が売りに来るボールを片っぱしから買ったんです」。 (つづく)
 =敬称略=