死去・馬場元子さん 馬場さんの遺骨とともに納骨

2018年04月24日 11時00分

ダラス市内で休日を楽しむ馬場さんと元子さん(1983年6月)

“世界の16文”“東洋の巨人”として一時代を築いた不世出の名レスラー故ジャイアント馬場さん(享年61)の夫人・元子さんが14日に肝硬変のため、都内の施設で亡くなっていたことが22日、分かった。78歳だった。親族のみで19日に通夜、20日に告別式が営まれた。6月には馬場さんが生前に建立した兵庫・明石市内の墓に夫婦揃って納骨される。巨人軍投手時代に知り合い、プロレス転向から全日本プロレス旗揚げ後も支えた元子さんが亡くなったことで、またひとつ「昭和のプロレス」が幕を閉じた。

 元子さんは昨年1月に東京・渋谷区の自宅で行われた「喜寿を祝う会」で元気な姿を見せたが、昨年初夏から肝臓の病気が悪化して6月に都内の病院に入院。10月には「持ってあと2週間」と医師から告げられた。その後に驚異的な回復を遂げるも、肝臓の病気は施術のしようがないほど悪化し、定期的に腹水を抜く処置と投薬だけが続いていた。

 13日夜は元気に笑顔で話し夕食も取ったが、翌14日に容体が急変。同日午後9時9分に息を引き取った。戒名は「顕徳院法栄妙元清大姉(けいとくいんほうえいみょうげんしょうたいし)」。6月に明石市の墓に馬場さんの遺骨とともに納骨される。

 馬場さんは1999年1月31日に死去し、遺骨は長く自宅に保管されていた。「なぜお墓をつくらないのか」との声もあったが、実はある“約束”があったという。元子さんの実父で故伊藤悌(やすし)さんが85年に亡くなった際、明石市内の墓の前で号泣する元子さんに対し、馬場さんは「もう泣くなよ。お父さんのお墓の隣に馬場家のお墓を建てるから。そこに(お互いが亡くなったら)一緒に入ろう。そうすればユーは永遠にお父さんといられるだろ」と慰め、その後に墓を建立した。

 6月に納骨式が行われ、百か日法要に合わせて7月に都内のホテルで「お別れ会」が行われる予定。代表取締役を務めていた馬場さんのグッズ販売や肖像権を扱う「ジャイアント・サービス」「ミスタービィ」などの会社は、最後まで看護にあたった元子さんのめいが中心となり親族が運営を継続する。全日本プロレスの事務所兼合宿所(神奈川・横浜市)はそのまま継続使用される模様だ。

 元子さんは1940年1月2日、兵庫・明石市の裕福な旧家に4人きょうだいの末娘として生まれた。プロ野球読売巨人軍が明石でキャンプを張った際、父親が後援会会員だったため、投手だった馬場さんと知り合った。当時、元子さんは15歳。その後、手紙を中心にした「遠距離恋愛」が始まった。

 神戸市の短大卒業後には米国に留学し、そのまま旅行代理店に就職。家族には秘密にしていたが、全ては当時トップレスラーとなって米国で活躍していた馬場さんとの交際を本格化させるためだったと後年に本人が明かしている。66年に婚約するも馬場さんはすでに大スターだったため、長く婚約の事実は伏せられていた。その後は日本プロレスの巡業にも同行するようになり、外国人選手からは「ミセス・ババ」と呼ばれた。結婚の事実が公にされたのは82年のことだった。馬場さんが72年に全日本プロレスを旗揚げすると、裏方として団体を支えた。

 99年1月31日に馬場さんが亡くなった後は、故三沢光晴さん(享年46)を社長として再出発を図るも、経営上で意見が衝突。2000年に選手とスタッフが大量離脱して「プロレスリング・ノア」を旗揚げする激震に見舞われた。厳しい会社運営姿勢に批判の声が多かったのも事実。しかし、それも「馬場さんの代わりに嫌われる存在が必要だから」と覚悟の上だった。

 同年7月には自らが社長に就任し、ミスタープロレス・天龍源一郎(68)の復帰や当時新日本プロレスのエースだった武藤敬司(55)の移籍などで団体を盛り返した。02年10月の日本武道館大会を最後に社長から退き、14年7月に秋山準(48)が新社長になると相談役として新体制を支えた(翌年に辞任)。

 来年1月31日には「ジャイアント馬場没後20年追善イベント」を計画しており、それが病後の元子さんの支えとなっていた。志半ばで急逝したが、同イベントは親族が中心となり開催する意向だ。くしくも18日(日本時間19日)には馬場さんのライバルだった“人間発電所”ブルーノ・サンマルチノ氏(享年82)が亡くなったばかり。急ににぎやかになった天国で、馬場さんと元子さんは抱き合って再会を喜び合っているに違いない。