“狂乱の貴公子”ことリック・フレアーが7月31日(日本時間8月1日)、米テネシー州ナッシュビルのナッシュビル市立公会堂で2度目の引退試合を行った。まな娘のシャーロット・フレアー(WWE)の夫、アンドラデ・エル・イドロとタッグを組み、ジェイ・リーサル、ジェフ・ジャレット組と対戦。最後はパンチから必殺の足4の字固めでKOすると、ジャレットから3カウントを奪った。フレアーは2008年3月の「レッスルマニア24」でショーン・マイケルズに敗れて引退。今回は2度目の引退となった。
NWA、WWF(現WWE)、WCWの主要世界ヘビー級王座のすべてを獲得した希代の名レスラーも73歳。今回は11年ぶりの実戦だったが、さすがにラストマッチとなるに違いない。そのフレアーが一番輝いていたのは、やはりNWA世界ヘビー級王者として全日本プロレスに参戦していた1980年代だろう。73年6月、国際プロレスに初来日した際はまだあか抜けない選手だったが、米NWAで地位を確立して78年に全日本に初来日するとメインイベンター扱いで活躍した。
そして81年9月にダスティ・ローデスからNWA王座を奪取すると、10月に王者として来日。6日から9日までの特別参戦で、天龍源一郎(6日仙台)、テリー・ファンク(7日横浜)、ジャンボ鶴田(9日蔵前)と何とわずか4日で3戦の防衛戦を行い、ベルトを守り抜いている。
10月6日に先陣を切った天龍は世界初挑戦。1本目はフライングボディーアタックをかわされ先制されるも、2本目は脳天砕きを切り返して3カウントを奪取。しかし3本目はフレアーが必殺の足4の字固めを決め、2―1で防衛した。天龍は「こっちがガーッと攻めてもノラリクラリと引くところは引く。だが勝負どころは一気に出てくる。本当にやりにくい王者だった。負けない王者だったね」と後述し、本紙は「世界王者になってまだ20日足らずでこの急成長。世界王者になった自信はすさまじいものであった」と分析している。
翌7日は元NWA王者の荒馬ことテリーと対戦。フレアーは天龍戦とはガラリ戦法を変えてラフファイトに出る。場外でイス、鉄柱攻撃でテリーを血だるまにすると、足4の字固めで先制。怒った荒馬は2本目、パンチの嵐で王者を大流血させると、急所打ちからスピニングトーホールドでタイに。しかし最後は激しい場外戦となり両者リングアウト、1―1でフレアーがドロー防衛に成功した。テリーは「本当に汚い王者だ」と吐き捨てたが、それこそがフレアーの本領でもあった。スタイルは貫きつつ相手に応じ、戦法を変える。絶対に負けない理由はそこにあった。
そして9日は満を持して鶴田が出陣。人間風車からのミサイルキックで先制するも、フレアーが足4の字固めでタイ。3本目、王者は得意の場外攻撃で流血に追い込むも、鶴田はジャーマン、パイルドライバーで反撃。しかし直前に2人と交錯したレフェリーが失神して3カウントは入らない。これもフレアーの「十八番」だった。鶴田はコーナーへタックルを仕掛けるも王者は、巧みにかわしてクルリと丸め込むとレフェリーが蘇生。フレアーがカウント3を奪った。
「鶴田無念。幻のNWAフォール」の見出し通りの内容で、内容はともあれフレアーには思惑通りの「完勝」だった。当時多かったこの展開に歯ぎしりしたファンは多いだろう。12回目のNWA王座挑戦も王座に手が届かなかった鶴田は「足4の字はギリギリと食い込んで、今までで破壊力はナンバーワン。レフェリーに泣いた」と語り、本紙は「アクシデントではすまされないが、内容では鶴田が上だった」と評している。フレアーは翌日、意気揚々とベルトを手に帰国した。
フレアーはその後も82~85年、87年にもNWA王者として来日。鶴田や天龍、カブキらを相手に防衛戦を展開。87年3月12日武道館の輪島大士戦が日本で最後の防衛戦となるも、一度も王座を失うことはなかった。試合運び、王者としての姿勢…この時代にフレアーが全日本マットのファイトスタイルに残した功績は大きい。ダーティーながらもやはり超一流の王者だった。 (敬称略)












