【プロレス蔵出し写真館】目の前の救急車が止まり、救急隊員が降りて来た。「危ないですからそんなにスピード出さないで下さい。行き先は新宿の東京医大ですから」。そう警告された。どうやら我々は救急車をあおっていたようだ。

 救急車に乗っていたのはアントニオ猪木。

 東スポは社の車で救急車を〝追っかけ〟ていた。救急車はサイレンを鳴らし、赤信号でも止まらず直進。我々の車もピッタリ救急車に張りつき、信号を無視して追走していたのだった。

 今から39年前の1983年(昭和58年)6月2日、蔵前国技館で行われたIWGP優勝決定戦でハルク・ホーガンと対戦した猪木は、エプロンでアックスボンバーを食らい場外に吹っ飛んだ。場外カウントが進む中、坂口征二らセコンドによってリングに押し上げられ、窒息を危惧した坂口は木村健吾(後に健悟)に猪木の口に指を突っ込み丸まった舌を引き出すよう指示。猪木はうつ伏せにされて、舌を出したまま失神KO負けした(写真)。後年、「猪木舌出し失神事件」と呼ばれた。

 さて、病院に到着した猪木は担架に乗せられたまま、1階の救急診療脳外科に運ばれた。中で児玉三磨医師と、新日本プロレスのリングドクター富家孝が待っていた。その後、南病棟ガンセンター内にあるコンピューター断層検査室に運ばれCTスキャンが撮られた。

 その間、院内は騒然とした雰囲気になっていた。当時の夫人・倍賞美津子も駆けつけ、一般紙、ワイドショーまで取材に来て、〝恐縮です〟でお馴染みだった梨元勝さんも病院からリポートしていた。

 そして、CT画像により一過性脳振とう、脳浮腫(頭が少し腫れる状態)と診断された。翌日の朝刊スポーツ紙は、ほとんどが1面でこの事件を報じた。
 
 一方、この猪木の舌出しは物議を醸した。

「気絶したら舌は出ない」、「舌は口の奥に縮まるように入ってしまう」等々。また、入院している猪木が深夜、病院から出たのが見られていた。

 入院しているものだと思っていた、東スポの編集局長・桜井康雄は、梨元さんから猪木が〝脱走〟したのを目撃したと電話で報告を受け(梨元さんは東スポにも執筆していた)、仰天したと後に証言した。病室を夜中に抜け出した猪木は夜明け前に、病室に戻ったとされている。

 ただ、翌3日の昼過ぎに退院した猪木は、スッポリと毛布にくるまって退院した。これが中身は猪木ではなく、病院には戻っていなかったいう説で広まった。

 この一連の出来事の後、坂口征二は「人間不信」と書いたメモを残し失踪。後に、ラジオ番組「真夜中のハーリー&レイス」で、「無言の抵抗じゃないけど」と、ハワイに行っていたことを明かした。

 とにもかくにも、世間を騒がせたこの事件。猪木の思考は、常人には理解しがたいのは間違いないだろう。

 ところで、当時、東スポのドライバーだった樋口芳男は「もう39年も前になるの…。よーく覚えてるよ。お前さんと一緒に追っかけたよね。何をチンタラ走ってるのかと思ってたら、御徒町あたりで救急隊員が降りて来たんだよね。一刻も早く猪木を病院に運ばなきゃいけないのにねー」。73歳となった今でも、記憶は鮮明だった(敬称略)。