
ノアの齋藤彰俊が、6日に急死したプロレスラーで空手家の誠心会館館長、青柳政司さん(享年65)に哀悼の意を表した。
6日夜に訃報を知った齋藤は「できたらフェイクであってほしいと思いました。少し前にメールをしていたし、その時にどこが調子悪いとかおっしゃってなかった。本当に突然ですよね」と沈痛に語った。6月に青柳さんから「空手の方で頑張っているよ」とメールが届いていたという。
青柳さんとは長年の師弟関係にあった。齋藤は中京大時代、空手の「時代塾」に在籍。交流があったのが青柳さん率いる誠心会館だった。愛知・豊田市体育館で練習中に青柳さんと初対面し、組手をしたのが最初だった。
青柳さんが邪道・大仁田厚と異種格闘技戦を行った1989年7月の「格闘技の祭典」では青柳さんのセコンドにも就いた。齋藤さんは愛知県の職員として働いていたが、青柳さんからの「プロレスはいいぞ」という言葉が忘れられず、職員を辞職。青柳さんに報告すると「バカ、何でやめるんだ!」と怒られ、齋藤さんが絶句したのを覚えている。
その後、誠心会館と新日本プロレスの抗争が勃発。齋藤が今でも忘れられないのが、92年4月と5月に行われた誠心会館の看板をかけた対決だ。齋藤は小林邦昭に敗れ、また青柳さんは越中詩郎に敗れ、空手道場の「顔」ともいうべき看板を新日本に奪われた。
「プロレスラーとしての青柳政司ではなく、館長としての一番の思い出はあの看板の時ですよね。空手でも会社でも看板を取られるということは一大事。その中で看板をかける戦いを、館長が自分に託してくれたんだという思いがありますよ」
一連の抗争を経て反選手会同盟、平成維震軍が生まれ、齋藤さんは常に青柳さんと同じコーナーに立った。
「直接厳しく怒ることはなかったけど、その分、自分で考えて極めていけということだったと思う。優しさの中に厳しさがあった。優しいだけでは一国の館長はできないでしょうから」と青柳さんの人柄を振り返る。
また「空手からプロレスへの先駆者だと思う。自分も中学生のころからプロレスラーになりたかったので、その影響はありましたね。あまりにも早いというか、もう何度かリング上で一緒に立つことがあるんだろうなというイメージしかなかった。あまりに突然すぎて…」と声を絞り出し師匠を追悼した。
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