プロレスリング・ノアの創始者で希代の名レスラー・三沢光晴さんが2009年6月13日に試合中の事故で亡くなって、13年がたつ。デビュー戦の相手を務め、ともにメキシコに遠征した全日本プロレス時代の〝兄貴分〟越中詩郎(63)が、三沢さんの命日に故人への思いを明かした。
1981年3月に全日本プロレスに入門した三沢さんは、同年8月にデビュー。入門からわずか5か月での正式デビューは、団体からの期待の高さを表している。相手を務めたのは78年7月入門の先輩・越中だった。「彼が入門した時から一つ屋根の下で道場に入って。(84年3月から)2人でメキシコに行くことになってね。その後は別々の道をたどることになるんだけど、入門当時から期待されてた選手だったからね」と振り返る。
一番の思い出は、やはりメキシコ遠征でともに過ごした時間だ。三沢さんの印象は「あんまり多くを語らない、おとなしいという感じ」だったが、2人で2DKの部屋を借りての共同生活は充実していた。「メキシコ行ったその日からメインイベントで使ってもらって。やりがいもあったし、本当に休みなんてなかったんだけど、2人で地図を広げて、明日の街はどこだとか、バスで行こうかとか飛行機で行こうかとか…」
ところがそんな生活はわずか4か月で終わりを告げる。全日本プロレスで2代目タイガーマスクをデビューさせる話が持ち上がり、ジャイアント馬場が白羽の矢を立てたのが三沢さんだった。
「急な話でね。試合が終わったら、日本から連絡があるってことで『三沢をとにかく帰せ』と。お前は全部、空港まで送って飛行機に乗るのを確認しろっていうことは言われましたね。せっかくいい感じで2人で日本人旋風みたいなものを巻き起こしてたので、ここで帰っちゃうんだっていうのはありましたけど、日本が第一でしたから。分かりましたって言うしかないですよ」
当時は日本の詳しい状況など分からなかったが、先輩をメキシコに一人残して帰国する三沢さんの心情は越中も察していた。「心の中じゃ申し訳ないってあっただろうけど、お互いに口に出しては言わなかったですよ。おかしな話だって、その辺も全部分かってたと思います。でも、自分も逆の立場だったらそうしますもんね」。安易に言葉にしないことが、三沢さんなりの敬意だと受け取った。
2003年12月にはノア横浜大会で再会マッチが実現。一城一国のあるじとなった三沢さんの覚悟を感じ取ったという。しかし、それから5年半後、三沢さんは試合中の事故によってリングの上で亡くなってしまった。46歳の若さだった。
「なんとも言えないよ。言葉がないよね。早すぎた? それはもちろんあるし…。三沢自身が一番悔しかったのかなとは思うよね」
三沢さんの死から13年がたつ。メキシコでの突然の別れを機に別々のレスラー人生を歩むことになった越中は、63歳になった現在も現役を続けている。
「生涯現役? 全然そんなことは考えてないですよ。そういう時は絶対に来ると思うので。今から考えてるわけじゃないけど、いずれはそういう時が来ると思ってます」と明かしつつも、天国の三沢さんにメッセージを送った。
「まあ、まだもうちょっと頑張るから、見守ってくれよなって。そういう言葉しかないな。三沢も『まだやってるんですか』って笑ってくれるんじゃないかな」
代名詞のヒップアタックの切れ味は、まだまだ健在。これからも越中は「やってやるって」と意気込んでリングに上がり続ける。












