【プロレス蔵出し写真館】今から30年前の1991年(平成3年)10月、SG(スーパー・グレード)タッグリーグ戦の第1回大会が開催された。異色チームも編成され、藤波辰爾&ビッグバン・ベイダー組、橋本真也&スコット・ノートン組、蝶野正洋&クラッシャー・バンバン・ビガロ組という〝ドリームコンビ〟が実現した。

 同月17日、福岡国際センターで行われた優勝決定戦は、藤波組が長州力&マサ斎藤組を破った。

 優勝は逃したものの、リーグ戦で得点トップだったのは長州組。前シリーズ「バトルオータム」を欠場していた長州は、リーグ戦の開幕戦で復帰を果たしていた。

 祝勝会でビールで乾杯した後、ベイダーに握手を求めた長州はいきなりプラスチックのカップに残っていた飲みかけのビールをかけられた(写真)。あわや乱闘勃発…という雰囲気はなく、その後がっちりと手を合わせた。

 ベイダーがビールをかけたのは長州に檄を飛ばしたからだろう。というのも、長州が欠場していたのは〝幻の引退騒動〟があったからだ。

 この年から「G1クライマックス」が開催され、8月11日の最終戦、両国国技館で行われた優勝決定戦で伏兵の蝶野が優勝を決めた。戦前の予想を覆す番狂わせに、試合後、祝福と感動の座布団が乱舞した。

 しかし、翌日の東スポの1面トップ見出しは「長州引退」。長州は10日の橋本戦でフライングニールキックを食らいピンフォール負けし、予選で3連敗。最終戦を欠場した。そのため長州が引退する意向を持っているのが発覚した。

 長州は右ヒザの靭帯を損傷、頸椎も痛め、以前から「千代の富士のようにボロボロになるまでやりたくない。引き際を考えてる」と引退を示唆していたからだ。

 引退報道が出た12日、長州は坂口征二社長、倍賞鉄夫取締役と事務所で会談を持ち、その後、マサ斎藤と2人で東スポに来社して太刀川恒夫社長(現・会長)から、「長い間ごくろうさまでした」とねぎらいの言葉をかけられた。

 それでも、20日に本人不在で行われた会見では、坂口社長は「引退は絶対にない」と強調。26日にはアントニオ猪木会長とも会談を持ち、「とにかく少し休んで、結論はそれからでいい」と引退の結論は先送りにされた。

 そんな中、9月10日に頸椎損傷の精密検査と右ヒザの靭帯損傷の治療のため、都内の病院に入院した長州をSWSの天龍源一郎が見舞った。天龍の「半分続けたいという気持ちがあるなら引退なんて言わずにマットに立つべき」。その言葉に、長州は引退を撤回。

 23日、新日本の横浜アリーナのリングに私服で上がった長州は、猪木とガッチリ握手をかわし、リング上から「最高の状態で三銃士の前に立つ!」とマイクで宣言した。

 翌92年1月4日の東京ドームでは藤波のIWGPヘビー級と自身のグレーテスト18クラブのダブルタイトル戦に完勝。完全復活を果たしたのだった。

 ところで、このビールの一件は、お互いに認め合っていたから成立した出来事だろう。長州は、「あの体で練習するんだから敵わないよな」とベイダーを認めていた。(敬称略)。