松永光弘 裸足に画鋲で新旧交代を阻止!!

2021年01月31日 10時00分

【写真左】画鋲バットを背中に打ち付ける松永。葛西の絶叫が後楽園ホールに響き渡った【写真右】自らも無数の画鋲の針の痛みを受けながらローリングクレイドルで葛西を仕留めた

【ミスター・デンジャー松永光弘 この試合はヤバかった】ミスター・デンジャーとしてデスマッチ界の孤高の存在だった松永光弘氏が、オリジナル度の高さでその試合スタイルに胸を張る一戦がある。葛西純を19分42秒で下した「画鋲裸足デスマッチ」(東京・後楽園ホール)だ。

【2001年5月27日 松永光弘VS葛西純】

 裸足蛍光灯デスマッチ(2000年4月30日、葛西純戦)で、ミスター・デンジャーの面目躍如。私は当時、電流爆破の大仁田厚さんを唯一の例外としながらも、その他のデスマッチを独占している状態で、プロレス界にライバルは見当たらず、デスマッチは私の専売特許でした。

 札幌で、新しいデスマッチファイターの若い芽を摘むことに成功しましたが、東京の舞台でもう一度その作業を行い、完全に私の時代に戻さなくてはいけませんでした。しかし対戦相手の葛西選手は、まだ新人でしたから、試合内容に過大な期待はできず、私が試合を引っ張らなくてはいけません。

 とはいえ、当時35歳だった私はその数年前から悩みがありました。

 デスマッチの世界で上がいなかった私は、どんなにいい試合をしてもプロレス専門誌でページを大きく割いてはもらえなくなりました。理由は簡単でした。

 若いスターを育てなくては、プロレス界の未来、そしてプロレス雑誌の未来もありません。ベテランにいつまでも活躍されては、困るのです。

 逆に私が若かったころは、プロレス専門誌の表紙や巻頭カラーで試合を何度も扱ってもらい、また普段でもカラー4ページは当たり前。過剰とも思えるくらいに売り出してもらいましたから、晩年のこの扱いには納得がいきましたが、むざむざと若い力に負けてしまうわけにもいきません。

 雑誌での扱いは悪くなっても、会場での人気や影響力ではデスマッチ界ナンバーワンを維持するために必死でした。

 当時の私は、昨今のデスマッチファイターや電流爆破一筋の大仁田さんとは違い、毎回新しいアイデアのデスマッチ、そして毎回新しい試合内容をファンから期待されるキャラクターでありましたから、何しろ毎回が大変で、裸足蛍光灯や裸足画鋲の裸足シリーズは、かなり苦心のアイデアではありました。

 しかし苦難のかいあって、この試合で「やはり松永は全然違う」と試合を見た観客から言われ、新しいデスマッチのファイターを完全に振り落とすことに成功。また現在、引退して12年の月日がたち、私よりも過激な試合をするファイターが大勢出現しましたが、この裸足の形式は、現在でも他の追随を許さない形式であることは、自己満足ながらうれしく思っています。

 ☆まつなが・みつひろ 1966年3月24日生まれ。89年10月6日にFMWのリングでプロレスデビュー。数々のデスマッチで伝説を作り、2009年12月23日に引退試合。現在は現役時代に開店した人気ステーキハウス「ミスターデンジャー」(東京・墨田区立花)で元気に営業中。

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