【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(31)】 2000年から二軍外野守備コーチを務めた03年を除いてずっと関東・北信越地方担当のスカウトをやっていた俺だが、08年、球団から突然、電話がかかってきた。「昇竜館の館長をやってくれないか」。そういう内容だった。ナゴヤ球場に隣接する昇竜館は高卒の選手は4年目まで、大学・社会人から来た選手は2年目まで入る独身寮だ。館長だった堂上照さん(中日の元投手で堂上直倫の父親)が辞めるというので、俺のところにお鉢が回ってきた。

 しばらくして落合監督からもナゴヤ球場2階のコーチ室に呼ばれた。「(昇竜館の)館長をやってくれ」。そう言われた。「わかりました。引き受けます」。そう答えた俺だけど一つだけ条件を出した。「クビを切る時は人の噂で判断しないでください。自分の目で見て決めてください」。俺の言葉に落合監督は「わかった」と答えてくれた。それで08年のシーズン終了後から俺は昇竜館の館長となったんだ。

 館長を引き受ける前は「面白いかな」と思っていたけど、これがなかなかたいへんな仕事だった。毎朝6時には玄関や駐車場を開けなければいけない。二軍の選手たちは朝から練習がある。朝食をしっかり取っているかチェックする必要があるし、一軍の選手たちは昼過ぎに球場に向かって、試合が遅くなれば帰ってくるのが午後11時過ぎというときもある。それから食事を取るケースもあるから食堂のコックさんとの調整もしなければならない。何だかんだで朝から晩までやることがいっぱいだ。

 そして何よりも重要なのが社会人としての最低限の心構えや礼儀を伝えることだった。昭和の時代には門限を破って酒場でヤクザの女に手を出し、顔をボコボコにされて野球どころではなくなった若い選手もいた。そんなことがあっては絶対にいけない。ドラフトで指名されて入ってきた選手たちはみんな将来のドラゴンズを背負って立つ可能性を持った金のタマゴたちだ。これまで寮生活をしたことのない選手も多いだけに、あいさつや集団生活を行う上でのルール(靴を玄関に脱ぎっぱなしにしない、スリッパの向きを整えるなどは口を酸っぱくして言った)をしっかりと教えることは意識した。

 もちろん寮では野球談議もした。昇竜館1階にはみんなが集まってテレビを見ることができるスペースがある。夕飯を終えたファームの選手たちと一軍の試合を見ながら「お前ならこの場面で何の球種を投げる?」「このケースで意識することは?」なんて話をした。そうやって一緒に寮生活を送った大野雄、高橋周、福谷、又吉(現ソフトバンク)らがやがてチームの中心となって活躍していく姿を見るのはやっぱりうれしかったな。

 ☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。