令和に振り返る光と闇の「平成球界裏面史」。あの時代、主役の一人は間違いなく清原和博だった。西武を振りだしに巨人、オリックスと3球団を渡り歩いたが、その中でも印象深いのは97年から2005年まで在籍した巨人。こわもての外見、「番長」の呼び名も相まって数々の武勇伝を残した。今回は「球団急襲編」に続く「遺恨マッチ編」をお届けする――。

【平成球界裏面史・清原和博〝遺恨マッチ編〟】清原の好敵手といえば、近鉄・野茂英雄、ロッテ・伊良部秀輝、中日・山本昌、横浜・佐々木主浩ら球史に刻まれる名前が挙がる。しかし、因縁の相手といえば阪神・藪恵壹だ。死球を巡る場外を含めた〝乱闘〟は本紙をはじめ、多くのスポーツ紙で1面を飾った。実際、ぶつけられた清原が激怒し、藪が「よけられるでしょう」と逆挑発するまでがセットだった。

 平成9(1997)年8月20日(東京ドーム)の6回。3番・松井に満塁弾を浴びた藪は清原の左腕にドスン。激高した清原は藪に向かって指を3本立てて「これで3度目やぞ」と詰め寄った。試合後も「今度、当てたらしばく」と清原の怒りを収まらなかった。

 その遺恨が大爆発したのが翌10(98)年7月10日(東京ドーム)だった。5回、藪の初球シュートが清原の右手親指を直撃。清原はゆっくりマウンドに向かうと「何や狙っとんのか」。両軍ベンチは総出となり、大乱闘寸前だった。

 結局、5―2で巨人が勝った。こう言っては不謹慎かもしれないが、清原の怒りっぷり楽しみだった。ロッカーに、戻るところを直撃すると、「後で話すから待っとって」。冷静な口調が逆に怖かった。

 私服姿で報道陣の前に現れた清原は厳しい表情で駐車スペースまで無言。そして愛車のエンジンをかけると一気に怒りを吐き出した。

「仏の顔も3度までとあるが、それを越えとる。(PL学園の先輩の)木戸さんも止めに来たし、今日は我慢した」「阪神はFAの時に声をかけてもらった球団で吉田監督もおるし、ええ人が多い。でもアイツだけは…。(藪が)他球団ならとっくに行っている」

 そしてあの名文句が飛び出した。「あのボケは絶対許さへんぞ。去年は〝しばく〟やったが、今年はそれ以上や。今度、来たら顔ゆがめたるぞ」

 それから数日後、清原の顔が沈んでいた…。どうしたのか。「顔ゆがめたる」発言が報じられた11日以降、大阪の実家に阪神ファンとおぼしき多数の人物から脅迫電話が殺到しているというのだ。

「ホンマに弱ったな。実家に脅迫電話がバンバンかかってきとるんや。両親も困っている」

 しかも内容も物騒なものばかり。「覚悟しとけ、タダでは済まさん」「どうなっても知らんぞ」「毎晩が月夜(明るい夜)ばかりじゃないぞ」「家がどうなってもええんか」と脅しだけではなく、口にできない言葉もあったという。

 当時、清原の実家は商売をしており、電話番号を簡単に変えることはできず、電話を無視することもできなかった。しばらく、続いたそうだ。

 それにしても、清原対藪が遺恨の代名詞になり、実家を巻き込むほどの大騒動に発展したのはなぜなのか。

 清原の真意は「勝負だから当たったり、当てられるのは仕方がない。問題はその後や。『すいませんでした』と謝ってくれればいいんや。グラウンドじゃなくても、(試合後に)直接じゃなくても、新聞記者を通してでもいい。それだけや。それを謝らんで…」ということだ。日本では死球を当てた場合、投手が頭を下げるのがマナー。清原が求めていたのはそれだけだった。

 一方、藪にしてみれば、狙ったわけでもないのにいちいち頭を下げられるか、弱い姿を見せてたまるかという思いは当然あったのだろう。

 平成9年から同15年(2003年)まで繰り広げられた「謝れ」「謝るか」の意地の張り合いは、50打数8安打、2犠飛、5打点で本塁打0。藪の勝ちだった。

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