島岡御大を男にした仁村薫〝伝説の一撃〟

2022年01月10日 10時00分

巨人との入団交渉に臨む仁村薫(81年、東スポWeb)
巨人との入団交渉に臨む仁村薫(81年、東スポWeb)

【越智正典 ネット裏】少し前に東映土橋の伝説について書いたが、学生野球にも伝説がある。1981年第10回日米大学野球選手権大会第4戦。0―0の7回、代打に起用された早大投手仁村薫が左腕ボスバーグをとらえて3ラン。ファンはびっくりした。

 東海大の原辰徳(現巨人監督)は日米大会に1年生の時から出場しているが、3年だった第8回大会で7試合4本塁打。4本目はケンマイヤーから満塁本塁打。ファンも関係者もびっくりしなかった。「辰徳なら打って当たり前だ」。

 仁村の場合は違う。みんなが驚いたのは無理もない。「監督の“御大”(島岡吉郎)が審判に『ピンチヒッター、ニムラ!』と間違って言っちゃったんだそうだ」。ファンはこの物語を楽しんだ。

 仁村薫は59年5月9日、埼玉県川越生まれ。家は大きな農家で、少年時代1時間に1本、彼の家の田んぼの中を国鉄機関区大宮へ石炭を運ぶ列車が通る。こぼれ落ちた石炭をそのままにしておくと田んぼが傷む。2歳下の弟徹(上尾高、東洋大、昨季まで中日二軍監督)と拾い集めた。スナップスロー。野球事始めである。薫は川越商業、78年早大文学部を受験。合格、入部。球拾いの毎日。監督宮崎康之(旧制小倉中学優勝時の三塁手、早大第42代主将、八幡製鉄)がひたむきな姿に心打たれ、仁村を3年生の春の開幕第1戦、対立教大の先発マウンドに送り出した。2―0。初登板初完封。96球、無四球、12奪三振、被安打2。入部から2年間の辛抱を乗せて球が走った。2点も彼が叩き出している。

 日米第9回大会の出場選手選考会、候補の一人に挙がった彼が練馬区立野町の中央大学の練習場(当時)に着くと誰もいなかった。マネジャーが集合時間を間違って知らせていたのだ。全日本監督の島岡は「遅れてくるヤツに用はない!」。島岡には日米に格別の思いがある。

 大会開催が難しくなったことがあった。日本の新学期は4月で米国は9月。日程調整が問題だった。島岡はシカゴに飛んだ。こぶしを振り上げ、続行を訴えた。スピーチ30分。マイクを一度も通訳に渡さなかった。米役員は日本語が分からない。が、島岡の熱血に万雷の拍手で存続が決まった。

 翌日から第10回大会が始まる81年6月23日、全日本に選ばれた仁村は、宿舎品川のホテル内の指定店に夕食を食べに行った。店に御大がいた。「オー、一番で来たか」。島岡は一番が大好きである。「あしたはうちの森岡真一(富山・桜井高)の先発で行くが、第2戦を頼むぞ。代打にも行くぞ」。言い間違いではなかった。伝説はこれでおしまい。その秋、早明1回戦の試合前、仁村は島岡に呼ばれた。控え室に行くと「オレを男にしてくれてありがとう」。モンブランの万年筆とインクを贈られた。のしに墨痕鮮やかに「仁村薫殿」。彼はのちに巨人を整理になり、星野仙一率いる中日に迎えられたとき、この万年筆で契約書にサインをしている。中日では「おにいちゃん」と呼ばれ、みんなに慕われ、星野に請われて楽天二軍監督も務めた。

 いまは稲作にいそしんでいる。稲は心優しくないと育たない。2021年「絹ひかり」が、みのりの秋を迎えた。「田んぼに入るのにも作法があるんです」。端正な男である。 =敬称略=

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