【高橋雅裕 連載コラム】須藤監督の下にいるくらいならトレードに出してほしい

2020年07月14日 11時00分

92年5月、休養した須藤監督に代わって指揮を執った江尻監督代行

【高橋雅裕「道なき道の歩き方」(5)】1992年の4月、僕がバスターをしなかったことで監督の須藤豊さんに呼ばれ、二軍行きを言われました。須藤さんは酒のにおいをさせながら「お前はチームが自分のために何をしてくれるかを考えている。お前がチームのために何をするかを考えなきゃいけない」みたいなことを言われ「わかりました」と監督室を出たんですよ。

 僕がふてくされてるように見えたんでしょう。後でロッカーに江尻亮ヘッドが来て「監督に謝りに行け」と。「僕の何がおかしいんですか。悪いことがあるなら謝ります。それを言ってくれないと行けませんよ」と言うと「いいから謝りに行け」って…。「もういいです」って帰ったら、翌日にまた電話があって「謝りに行け」。

 江尻さんは僕がルーキーのころの二軍打撃コーチで、ずっと教えてもらってやってきたし、監督室に行って謝りましたよ。須藤さんはバスターのことは言わず、チームの話をずっとしていました。もう僕の中では理解できない人だったし、この人の下でやることはないだろうなと。江尻さんがわかってくれていればいいや、と思いましたね。

 二軍で3割5分くらい打ちましたけど、もう呼んでもらえない(笑い)。一軍出場は22試合でした。須藤さんの下でやりたくなかったし、トレードに出してほしかった。二軍戦では他球団の編成が見に来て「なんでお前がここにいるんだ」みたいな話になって…。知っている人もいて、ほぼ日本ハムに決まっていたんですよ。気持ちは完全にハムになっていました(笑い)。

 そんな時、5月に成績不振で須藤さんが休養、江尻さんが監督代行になった。もう無理にチームを出ていく必要がなくなったし、夏場には江尻さんが一軍に呼んでくれました。シーズン後、秋季練習で横須賀にいたら次期監督に決まった近藤昭仁さんがグラウンドに来て「お前は外に出さないからね。右の代打で使うつもりだから」と…。「チームを出たいわけじゃないです。やらせてもらえるならどこでもやります」と言いました。使ってくれるという監督は選手としたらありがたい監督ですから(笑い)。外でやりたい意思はあっても、自分の中では安心感もありましたね。

 低迷するチームにさらに暗い影を落とす事件もありました。91年12月に2年連続で開幕投手を務めていた中山裕章がわいせつ事件を起こして逮捕。僕は仲が良かったからびっくりでした。そのころの彼は私生活でつらいことが多く、野球でも高校の先輩の須藤監督にいろんな小言を言われてストレスをためていました。肩の調子も悪いし、逃げ道がなくなっていたんですよ。でもやったことは悪いことだし、被害に遭われた人がいる。世間的にニュースになって僕らは逆に話題にしづらかったですね。

 93年、そんなネガティブなイメージを刷新するべく、チームは横浜ベイスターズとリニューアルされました。


☆たかはし・まさひろ 1964年7月10日、愛知県豊明市出身。名古屋電気(愛工大名電)で1981年夏の甲子園大会に出場。82年のドラフト会議で横浜大洋に4位指名され、入団。内野手として88年に全試合に出場。88年から89年にかけて遊撃手の連続無失策(390連続守備機会)を記録した。96年オフにロッテに移籍し、99年に引退。2000年からロッテ、楽天、横浜で守備、走塁コーチを歴任した。11年には韓国・起亜、16年から4年間はBCリーグ・群馬でも指導した。現在は解説者や少年野球の指導にも当たっている。