【野球探偵の備忘録98】高校時代「西の福留、東の沢井」と言われながら、プロでは不本意な成績に終わった元ロッテの沢井良輔。引退後は波瀾万丈の人生を送りつつ、今は生命保険の業界で充実した日々を過ごしている。41歳になった沢井が、福留孝介(阪神)と比較され続けた高校時代と、今の仕事にかける熱い思いを語った。

「最初はうれしかったですよ。『東の西の』って、その世代で2人しかいないんだから。でも、途中からいい加減にしてくれよという感じ。孝介と実際に会う機会がなかったら、なんてことはなかったけど、間近で見て向こうの方がずっと上だってのはずっと感じていましたから」

 千葉の名門・銚子商で高校1年からレギュラーだった沢井と福留の出会いは、2年の秋にオーストラリアで行われた第1回AAAアジア野球選手権。その時点ではまだ、互いの存在を認識してはいなかった。

「当時はインターネットなんてなかったから、孝介に限らずみんな『初めまして』。AAAで優勝して『東の西の』と言われるようになって、次がセンバツ。よりによって初戦で(福留の)PLと当たって、そこからはずっと比較の対象でした」

 センバツでは沢井が先制ソロ、福留も負けじと3ランを放ち打撃戦に。延長11回に勝ち越し、10―7で逃げ切ると、銚子商はそのまま全国準Vまで駆け上がった。互いに存在感を示した沢井、福留の名は一躍全国区に。常にライバルとして扱われ、沢井が2本塁打を放った試合では「福留くんは今日3本打ったけど、どうですか?」と質問が飛んだ。

 夏の甲子園は3回戦敗退。その年のドラフトでは高校生史上最多となる7球団競合の末に近鉄が福留の交渉権を獲得、沢井は福留の外れ1位でロッテが交渉権を獲得した。

「孝介に電話したのはドラフトのとき。自分には夢があったのでロッテへの入団を迷ってたが、家族と相談して地元の球団ということもあり、プロの世界へ飛び込むことを決意した。長くて苦しい10年間だったけれど、あの時ロッテに入ってよかったなと思っています」

 一軍での初安打まで5年を要し、7年目には開幕スタメンもレギュラー定着には至らなかった。プロ10年目、プレーオフでリーグ優勝を果たした節目の2005年に自由契約に。その後クラブチームや独立リーグを渡り歩き、10年にアリコジャパン(現メットライフ生命)に入社した。

「独立リーグ時代の社長さんの食事会に誘っていただき、そこで今の会社の石川克自さんに名刺をいただきました。その後、程なくして独立リーグをクビになってしまって。本当に常識がなく恥ずかしい話なんですが、それまでは必要ないものだと思って、いただいた名刺を全部捨ててしまっていたんです。1枚だけ残っていた石川さんの名刺を頼りに宇都宮のオフィスを訪ねました。石川さんとエイジェンシーセールスマネージャーの愛木さんに初めて会った瞬間から一緒に働きたいと思い、すぐ入社を決意しました。今は、コンサルタントの古谷さんら大切な仲間と保険のプロとして日々、切磋琢磨しています」

 それまで野球しかやってきておらず、茶髪のまま面接に臨んだり、初めての専門用語に戸惑ったりと慣れない環境に苦戦もしたが、新人2年間で、継続的に一定の数字を叩き出すことで獲得できる狭き門のルーキー賞を受賞。一生懸命、お客さまのことを思い、寄り添うことで、野球をしていたころの何倍も充実した日々を送っている。

「僕はプロ野球の世界ではうまくいかなかったけれど、野球を辞めた後の新しい世界でたくさんの人との出会いもあり、恵まれた人生を送っていると思うんです。毎年100人が辞めるプロ野球の世界で、中には僕のところを訪ねてきてくれる後輩もいます。自分も同じ境遇のときにチャンスをもらいました。彼らのセカンドキャリアの手本になるためにも、この先もやり続けますよ」

 バットを置き、身一つで飛び込んだ一般社会。「プロ野球選手時代はたくさんの方に応援していただいた。今は生命保険を通して、自分がお客さまを応援していきたい」と力強く語る。“天職”に巡り合って間もなく10年がたつが…。沢井の挑戦はまだまだ続く。

 ☆さわい・りょうすけ 1978年3月9日、千葉県銚子市出身。高神小4年のとき、同校のスポーツ少年団で野球を始める。銚子二中では軟式野球部に所属。銚子商では3年春夏と甲子園に出場し、春に準V。95年ドラフト1位でロッテに入団。2005年に戦力外となり、06年からクラブチーム「千葉熱血MAKING」に入団、同年9月に「サウザンリーフ市原」に移籍。08年からBCリーグ群馬ダイヤモンドペガサスでコーチを務めるも、09年限りで退団。10年から生命保険大手のメットライフ生命で保険営業を行う。186センチ、89キロ。右投げ左打ち。