【闘魂三銃士、nWo…激闘の舞台裏 蝶野正洋自伝 黒の真実(16)】1988年7月、俺、武藤敬司さん、橋本真也選手の3人で「闘魂三銃士」が結成というより命名されたんだよ。名付け親については、東スポの記者だと聞いたことはあったけど、真偽は定かではない。猪木さんが付けたかというと、恐らくそこまではしないと思うし、橋本選手と記者あたりで考えて、猪木さんに持ちかけたのが一番あり得る話じゃないかな。

 橋本選手は「闘魂」という言葉にこだわっていた。とても意味があるものだからだ。当時の新日本プロレスでは「闘魂を誰が受け継ぐのか」っていうのが一つのテーマだったんだ。以前にユーチューブで長州力さんと対談した際に「『闘魂』という名前を聞いた時、もうかなわないなって思った」と言われていた。橋本選手はその辺が分かっていたんだ。

 俺としては「闘魂三銃士? だっせえ」って感覚しかなかったね(笑い)。3人でパッケージされることを一番嫌がっていたのは、武藤さんだったと思う。86年に一度帰国して「スペースローンウルフ」として売り出されていた武藤さんは俺たちの2つ、3つ先のステージに上がっていた。

米国遠征中の武藤敬司(左)と蝶野正洋(1988年)
米国遠征中の武藤敬司(左)と蝶野正洋(1988年)

 そんな時に、もう一度海外に出ることになったのは新旧世代闘争が起こって、派閥争いに巻き込まれたからだったんだろう。あれだけのスター選手なんだ。もっと段階を踏ませるべきところを、そのはしごを外されたものだから。それが嫌で日本を離れた部分もあったのではないかな。

 当時は海外生活が手いっぱいで、帰国の見えない武者修行の身。新日本は遠い向こうの日本で、頭から外れてたよ。

 闘魂三銃士は「nWo JAPAN」や「TEAM 2000」のように、自分がつくったわけではない。昭和チックに感じていた名称が嫌じゃなくなったのは、ここ最近の話だ。

 2005年にユークス、12年にブシロードと親会社が代わり、闘魂(アントニオ猪木)の排除と継承は行われた。中邑(真輔)、棚橋(弘至)、オカダ(カズチカ)を経ても、リングの中ではストロングスタイルは残り続けている。闘魂という看板が離れかけていっている中でも昭和、平成の新日本とのつながりは存在し続けている。自分たちがその流れの中に少しでも、関わっていられたことを今は良かったと思えるんだ。

 新日本には、闘魂とストロングスタイルという2つの概念がある。猪木さん、藤波(辰爾)さんとか、昭和のトップレスラーだった人たちは、そのどちらも持っていたんじゃないかな。ちゃんと理解はできていないけれど、ストロングスタイルっていうのはリングの上での戦いの表現で、闘魂というのは生きざまではないか。自分と戦っている姿を見せ続けていくことが闘魂なんだ。