【闘魂三銃士、nWo…激闘の舞台裏 蝶野正洋自伝 黒の真実(13)】1987年12月、ドイツのブレーメンを最後に欧州での武者修行を終えて米国に転戦することになった。次のスケジュールはエージェントの大剛鉄之助さんが担当となり動いてくれるということで、ミズーリ州カンザスシティーとの話が出ていた。

故大剛鉄之助さん
故大剛鉄之助さん

 欧州の最終戦にはアンドレ・ザ・ジャイアントもいた。前年に前田(日明)さんとのトラブル(※)があったけど、俺が若手の時には話もできなかった雲の上の存在。控室であいさつして、次は米国に行くことを話すと「カンザスシティーか、気をつけろよ」っていう感じのことを言われた。

セコンドとして猪木(奥)を暴行するアンドレを止める(86年6月)
セコンドとして猪木(奥)を暴行するアンドレを止める(86年6月)

 アンドレは現地の団体が衰退している状況を知っていたから「向こうの会社は大丈夫か」みたいな感じで伝えてくれてたんだと思う。俺の中でカンザスシティーはNWAの有力拠点だった名門のイメージで、言われた時は意味が分かっていなかった。

 欧州を後にした俺は一度、カナダのカルガリーで担当する大剛さんと合流した。同地には橋本選手を担当するエージェントの安達勝治さんがいた。日本でも派閥争いがあったように、カルガリーにも安達派と大剛派があった。国際プロレス出身の大剛さんは酒が入ると手のつけられない酒乱で、安達さんは〝名たきつけ屋〟。2人は競争し合っていて、全日本プロレスにも関わりがあった安達さんは新日本からは警戒されていたと思う。

 空港では、大剛さんと橋本選手が迎えてくれた。久しぶりに再会すると、顔が横に広がってデカくなってたんだよ。ちょうど変貌期で、みんなが知っている〝橋本真也〟になりかけていたんだ。「ブッチャー(橋本の愛称)どうしたんだよ!」って思わず叫んだよ。安達さんは業界を分かっている人だったから、橋本選手はレスラーとしての身の立て方をここで教わっていたのかもしれないな。

 カンザスシティーで大剛さんと宿に着き、まず練習をやらされた。国際のスタイルだよね。次の予定を聞いたら「トライアウトからだ」って言われた。契約があるものだと思っていたから「あんたエージェントでしょ。欧州から来て契約がないんですか」って生意気に言ったら、大剛さんも立ち上がって「ふざけるな、このハナクソが! 米国でテメエのことを誰が知ってるんだ。テメエが来てチケットが一枚でも売れるのか」と言い返されケンカになった。

アンドレから忠告を受けたカンザスシティーで活動した(88年5月)
アンドレから忠告を受けたカンザスシティーで活動した(88年5月)

 今だったら理解できるが、当時は米国の事情を知らなかった。行くところもないからトライアウトをやったら合格し、何とか「アメリカ」に残ることができたんだ。

 ※86年4月の新日本・三重大会で前田とアンドレが対戦し、アンドレがマットに倒れ込み試合を放棄し、無効試合。