【闘魂三銃士、nWo…激闘の舞台裏 蝶野正洋自伝 黒の真実(9)】俺は1984年10月5日の新日本プロレス越谷大会でデビューした。その直前、長州力さんら維新軍が9月21日に離脱を発表し、その後にジャパンプロレスを設立。そのころの新日本はとにかくゴタゴタで取り巻く環境もガラッと変わった。

 ジャパンには新日本の営業担当も移っていたから大変だ。新日本のチケット販売の管理者がいなくなったんだ。俺がデビューする前の夏までは、どこに行っても満員の状態だった。ところが営業マンがいなくなり、会場周辺でも宣伝カーが走らず、ポスターも貼っていない状況。会場には実際、100人も入らないなんてこともあった。

 その時に動いたのが(アントニオ)猪木さんだ。試合前に若手は1時間半くらい練習する。それまでは基本運動のスクワット、プッシュアップとかが終わったらスパーリングに入るところ、猪木さんは若手を連れて外を走ったんだ。猪木さんは糖尿病、コーチの荒川(真)さんは痛風だったんで、俺らはリカバリーのランニングに付き合わされていると思っていたが、そうではなかった。

アントニオ猪木さん(右)とランニングする蝶野正洋
アントニオ猪木さん(右)とランニングする蝶野正洋

 猪木さんは街中を走るんだよね。商店街に入っていくとお店の人たちが「猪木さんが来た!」と集まってくる。猪木さんは立ち止まって握手し、写真を撮ってあげたりということをやったんだよ。当時の俺にはわからなかったが、営業不在の中で自ら宣伝を兼ねて街を走っていたんだ。

 一方で選手がごっそり抜けたから、若手が注目され、翌年3月にはヤングライオン杯争奪リーグ戦が始まった。優勝者には海外遠征の特典がある。俺らの上には中堅前の後藤(達俊)さん、小杉(俊二)さんという人たちがいて、次のステージに行ってもらわなきゃ困るという段階だったと思う。会社的には、そのステータスをつくってあげるという意味もあっての若手の登竜門だった。

 第1回はヤングライオンの中では一番キャリアが長く、実力もあった小杉さんがライガーに勝って優勝(※)。そうしたら小杉さんが「海外遠征に行きたくない」って話になったんだ。みんなは「先輩なんでですか?」って反応だ。小杉さんが行かなかったら次に俺らが優勝しても行くチャンスがなくなるからな。でも第2回はライガーが優勝して海外遠征に行ったから、ようやく会社が描いている、俺ら若手も夢見たヤングライオン杯の形になったんだよ。

 俺は第1回ヤングライオン杯にデビューから半年足らずで出場したけど、あのころは試合が組まれることがステータスだった。若手が多かったので2日に1回とか試合するレベルだったから。自分に自信がないし、どれぐらい評価されているのかわからなかったな。

 ※ 85年4月18日の新日本両国国技館大会で優勝決定戦が開催された。