【プロレス蔵出し写真館】復帰することはないと思われていたレスラーが、まさかの復帰戦を行った。〝実直な性格〟として知られた坂口征二だ。

 坂口は1990年(平成2年)3月に引退して、社長に就任。その後、会長職に就いていた。復帰を決断したのは、今から22年前の2003年(平成15年)8月28日の大阪大会だった。

 この日、蝶野正洋が高山善廣に挑戦するIWGPヘビー級選手権が、新日本プロレス初の金網デスマッチで行われた。坂口は立会人を務めた。試合は、高山が蝶野の額を金網の支柱に叩きつけて流血させ、裸絞めからフロントヘッドロックで締め上げる。高山は本部席の坂口に「もう止めろ!」とアピールした。試合前に「中途半端に止めるつもりはない」と断言していた坂口はこれを拒否。

 ならばと、高山は死に体と化した蝶野を抱えてバックドロップ3連発。さらにエベレストジャーマンを発射。ダウンした蝶野を踏みつけてフォールをアピールした。意識もうろうの蝶野は高山の足首をつかんで反撃を狙うも、再び高山がスリーパーホールドで絞め上げ、落としにかかった。

 それを見たスーツ姿の坂口は、金網のカギを開けてリングイン。蝶野の失神を確認して高山の勝利を宣言したのだが、スリーパーを解かない高山に激怒。蹴りを見舞うと、抵抗する高山を腰投げで豪快に投げ捨てた。怒った高山に、ニーリフトから、ギロチンドロップの追い打ちを食らった。

 坂口は控室で、胸部を押さえながら「年がいもなくやってしまった…。もう少し、オレが若ければカムバックしてもやっちゃるのに…」と反省気味に語ったが、9月14日の名古屋レインボーホール大会で蝶野とのタッグで、高山&真壁伸也(後に刀義)との対戦が決定した。

 決戦当日、坂口は勇壮なテーマ曲「燃えよ!荒鷲」で入場。白い柔道着に身を包み、両脇を長男・征夫(後にプロレスデビュー)、人気俳優の次男・憲二がガッチリとガードする。2階席では利子夫人が祈るように見守った。

高山(手前右)と一触即発の次男・坂口憲二(2003年9月14日、名古屋レインボーホール)
高山(手前右)と一触即発の次男・坂口憲二(2003年9月14日、名古屋レインボーホール)

 坂口はいきなり払い腰。体落としで投げて奥襟絞めを決める。救出に入った真壁には大外刈りから逆十字固めで圧倒した。場外で憲二が真壁に襲われそうになると、素早くリング下に飛び降りて息子を救出。引退していたとは思えぬ身のこなしに「現役時代より、早いんじゃね」。報道陣からささやきが漏れる。リングに戻ると、真壁には得意技のアトミックドロップを決めた。

 高山が白帯を解いて坂口の首を絞め、エプロンに駆け上がった憲二が猛クレーム。高山は仁王立ちになり、憲二と対峙する。そのスキに蝶野が真壁をグラウンドコブラで丸め込んで3カウント。坂口は復帰戦に勝利した。

 翌月13日の東京ドームで、憲二とタッグ結成というプランも浮上したが、これは実現しなかった。坂口は天山広吉&永田裕志&中西学&棚橋弘至と組んで、「真猪木軍」の高山&藤田和之&鈴木みのる&中邑真輔&ボブ・サップ組と10人タッグイリミネーションマッチで対戦。中邑にリングに落とされて退場第1号となり、これが坂口の最後の試合となった。

 当時、執行役員でマッチメーカーだった上井文彦氏は「坂口さんは、あそこまでされて黙ってられるか! やっちゃるけんよう!」と怒っていた。「現役時代と同じ、怖い坂口さんを見た」と明かし「2試合目の東京ドーム大会を終えて、月例の長老会議(食事会)に出席された時、大阪から東京ドームまでの数十日間を振り返り『本当に充実した緊張感あふれる日々が過ごせてよかったよ。ただ、あの東京ドームに猪木さんが出てくれてたら、もっと最高だったけどな』と言ってました。この言葉が、今でも私の脳裏に焼き付いています」と回想した。

 さて、26年の1・4東京ドームでは、東京五輪柔道100キロ級金メダリストのウルフアロンがEVIL相手にデビュー戦を行い、逆三角絞めで勝利した。いきなりベルト(NEVER無差別級)奪取は、まさに異例中の異例。今後の活躍が期待される。

 柔道金メダリストのプロレス転向は日本人初。日本の団体への入団は73年(昭和48年)全日本プロレス入りした東京五輪(64年)のアントン・ヘーシンク以来だ。

 ところで、坂口はそのヘーシンクを五輪で倒せる最右翼と目されていた。しかし、五輪を前にした夏、高校時代からの古傷だった腰を練習中に痛めた。医者からストップがかかり、代表からは漏れてしまった。

世界選手権でアントン・ヘーシンク(中央)を攻める坂口(1965年、ブラジル・リオデジャネイロ)
世界選手権でアントン・ヘーシンク(中央)を攻める坂口(1965年、ブラジル・リオデジャネイロ)

 ヘーシンクとの対戦は五輪直後の親善試合で実現し、判定負け。坂口が65年(昭和40年)全日本選手権に優勝し、その年の世界選手権で2度目の対決が実現した。この試合も坂口が優勢負けとなり、銅メダルに終わった。

 68年のメキシコ五輪で柔道の除外が決まり、目標を失った坂口は67年2月17日、25歳の誕生日にプロレス入りした。坂口は後年「ヘーシンクには勝てる自信があった。腰を痛めたから五輪には出られなかった。だから(失意で五輪は)テレビも見なかった」と語っている。 

 腰を痛めず五輪に出場していたら、金メダリストとしてプロレス入りしていたかもしれない。

 近況が聞こえてこないが、お変わりはないだろうか(敬称略)。

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