【プロレス蔵出し写真館】「あの試合からもう40年? 今ごろの時期だったんだ?」。和田京平レフェリーがそう聞き返したのは、1985年(昭和60年)11月4日、ジャパンプロレスの大阪城ホールで行われたジャパンの総大将、長州力と全日本プロレスのジャンボ鶴田の一騎打ち。
60分時間切れ引き分けに終わった試合は、残り時間10秒で鶴田が長州に逆エビ固めを決め、その状態で終了ゴングが鳴った。和田レフェリーは「控室に帰ってきたジャンボは普段と変わらなく平然としていた」と明かし、ジャパン側に聞いた話として、長州は会見後に、疲労こんぱいで床に寝転がっていたと話してくれた。
和田レフェリーは「あのときに試合を裁いたのは(タイガー)服部さんだけど、オレが裁いた小島VS天山。あれが、それこそ天山が長州さんで、小島がジャンボ鶴田だったんじゃないかな。時代を空かせば。全日本VS新日本の戦い方だった」と語る。
和田レフェリーが回想したのは、2005年(平成17年)2月20日に新日本プロレス、両国国技館で行われた天山広吉VS全日本プロレス小島聡のIWGPヘビー級&3冠ヘビー級のダブルタイトル戦だ。初めて両団体の至宝がかけられた歴史的な一戦だった。
天山と小島は新日プロで「テンコジ」と呼ばれ名コンビだったが、小島が02年に武藤敬司に誘われ全日プロへ移籍。史上初となるWタイトル戦は、小島が2月16日の代々木大会で川田利明を破って3冠王者となり、天山とのカードが正式に決まったのは4日前のことだった。
さて、60分1本勝負で行われた試合は、40分を過ぎたころから、天山の動きが急に悪くなる。ラスト10分になると、ピタリと動きが止まってしまった。
小島が三沢光晴流のローリングエルボーを食らわすと、天山は場外でダウン。西村修がペットボトルの水を飲ませようとするのを和田レフェリーが厳重注意した。林雅之リングドクター、セコンド陣が総出で介抱する。
脱水症状を起こし、汗が止まり、唇はカサカサだ。55分過ぎには完全に動きが止まり、リング上で倒れたまま動かなくなった。小島がエルボードロップを見舞うも反応がない。天山の異変に場内は騒然となった。
小島は和田レフェリーのダウンカウントをさえぎるように、天山を起こそうと試みたり、カウントを妨害して叫ぶ。「起きろ、天山!」
それでもサブレフェリーの田山正雄が小島をコーナーに押し込んでいる間に、和田レフェリーがカウント10を数え、小島のKO勝ちを宣言した。試合の決着タイムは59分49秒。なぜか後から新日プロが59分45秒と訂正した。
新王者の小島はIWGPベルトをリング上に放り投げ、新日のレスラー、ファンが非難を浴びせた。
天山は会場の救急室で応急処置を受けてから、救急車で病院に運ばれ、MRIなど精密検査を受けた。脱水症状のほかに異常は見られず関係者はホッと胸をなで下ろした。
和田レフェリーは「小島の戦い方が全日本のスタイルになった。がむしゃらに攻めていかなかった。でも天山は自分の会社だったから、緊張もあっただろうしスタミナの配分を忘れちゃった。それで天山はヘトヘトになった」と分析する。
「(館内から)『天山、何やってんだ!この野郎』ってヤジも聞こえていた。これで引き分けにしたら大変なことになる。暴動が起きるぞって(思った)。オレは天山のレフェリーストップでもよかったんだけど、全日本のレフェリーが天山のレフェリーストップって言うわけにいかなかった。だからオレは、お客さんのわかりやすいように10カウントを数えた。ルール上、ダウンカウントをなんとか取ろうとした。小島はそれを阻止して、時間切れに持って行きたかったんじゃないかな」(和田レフェリー)
小島はフォールでの勝ちを狙ってカウントを阻止したという声もあった。
「あの状況では、もう天山の負けってお客さんにわかっちゃってるから。小島は余裕で戦ってるから。だからオレはあそこで絶対に時間切れ引き分けっていうふうには言いたくなかった。功労者は田山だった。田山が小島をコーナーに押しつけた。オレはそれを見て〝田山よくやってくれた〟と思った。田山がいないとオレも困惑しただろうね。陰の主役は田山なんだよね」と和田レフェリーは振り返る。
ところで、ずいぶん後から獣神サンダー・ライガーのユーチューブチャンネルで、天山は「覚えてないですもんね、最後は。記憶が飛んじゃって、気がついたら控室に帰ってたって感じでした。何やってんだ、オレ?って感じで。あんまり思い出したくないですね、この試合は」と語り、小島も「いろんな意味で、極限状態までお互いに追い込まれてたなって。今思えばですけどね」と言葉少なに語った。
レスラーはもとより、レフェリーにとっても〝過酷〟な一戦だった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る













