【プロレス蔵出し写真館】7月11日は〝破壊王〟橋本真也の没後20年だった。脳幹出血で40歳という若さで亡くなった橋本は、破天荒なキャラクターで昭和、平成を代表するプロレスラーとして知られた。
晩年のZERO-ONE時代は右肩のケガに悩まされたが、急逝する前年04年12月に右肩靱帯接合手術が成功し、リハビリ後の復活が期待されたが、かなわなかった。
さて、右肩を決定的に悪化させたのは、川田利明との初対戦で見せた〝豪快〟な切り返しだった。
今から22年前の2003年(平成15年)2月2日、ZERO-ONEのディファ有明のリングに武藤敬司を始めとする全日本プロレスの所属選手、スタッフの計47人が現れ、リングを占拠した。これで全日プロとの対抗戦がスタート。同月23日、日本武道館大会の頂上決戦でグレート・ムタを破った橋本は3冠ヘビー級王座を初戴冠した。
5月2日のZERO-ONE、後楽園大会の橋本&小川直也 vs 武藤&小島聡戦の試合後、川田が乱入して橋本に蹴りを見舞い「オレを潰すまでは全日本は潰せないぞ、お前!」。川田が橋本に宣戦布告して7月6日のZERO-ONE、両国大会で橋本&小川の〝OH砲〟vs〝全日最強コンビ〟川田&武藤組が決定したのだ。
ところが橋本は、3週間前の6月14日の福島大会で佐藤耕平と対戦し、ストンピングを叩き込んだ際に右足を負傷してしまう。後に右ヒザ下部を骨折したことが判明する。
橋本は両国のリングに足を引きずりながら入場。満足に戦えない状況は明白だった。
試合が始まると右足を狙われる。武藤にアキレス腱固めを決められ、悲痛な叫びを上げた。
それでも川田には意地を見せつけ、張り手とケサ斬りチョップの打ち合い。武藤は容赦なく橋本の右足を攻めドラゴンスクリュー、低空ドロップキックを連発。痛みに耐える橋本の絶叫が館内に響き渡る。
試合後半、小川と川田はお互いにマウントパンチの応酬を繰り広げ、武藤は小川を足4の字固めで捕獲。川田は4の字を耐える小川の上に乗りマウントパンチの乱れ打ちだ。橋本はカットに入り、痛みをこらえて右足で川田の側頭部をキック。観客は大熱狂だ。
そして川田は橋本に強烈な延髄斬りを放った。「バシッ!」。ものすごい音とともに橋本がダウン。
川田は狙い澄まして、再度ジャンピングハイキックを放った。すると橋本は、ケサ斬りチョップで叩き落とす。川田は右足を押さえて苦悶の表情。しかし、橋本も右肩を押さえている。
橋本は川田の右足をヒザ十字固めに捕らえた。一度はロープに逃れた川田だが、再度、決められる。小川はカットに入った武藤にSTOボンバーを決め、GTOで捕獲。
ヒザ十字固めを決める橋本だが、左手だけで川田の右足を決めている。右手に異常があるのか、違和感を感じる光景だった(写真)。しばらくその状態が続くと、セコンドの渕正信がエプロンに上がり、ちゅうちょしながらもタオルを投げ入れた。19分45秒、TKOでOH砲が勝利した。
橋本は右肩を脱臼したことがわかり、全治6か月の重傷だった。橋本は深夜になり、肩の激痛に耐えかねて都内の病院に緊急入院した。「肩の痛みでヒザの痛みを忘れた」(橋本)ほどだったという。
ところで、タオルを投げた渕は「川田は足のケガでずっと欠場してたでしょ(02年、左ヒザの半月板を負傷して1年ほど欠場して03年に復帰)。試合前に足首がちょっと調子悪いって、珍しく泣きごとを言ってた。武藤もヒザ悪いし、五体満足で元気だったのは小川だけだったよな」と振り返り「(橋本が負傷したのは)川田の蹴りの強烈さを計算してなかったんだな。当時の川田の蹴りは威力がすごかったから」と、橋本がケサ斬りチョップで迎撃したのはむちゃだと指摘した。
「橋本は川田のヒザを決めたまま(マットに)両肩着いてジーっと動かないから、『もうレフェリー、カウント取れよ』って言いながらエプロンに上がった。(タオルを投げようとしたら)橋本がオレの方をジッと見てたんだよ。『投げてくれ、投げてくれ』って、あれは懇願の目だったんだなって後から思った(笑い)」と渕は明かす。
「でもオレ、タオル持ってたかな…。(投げたのは)Tシャツだったかもしれないな」(渕)
橋本はこのケガで3冠王座を返上し、同年9月にトーナメントを経て王者となった川田に指名され、翌04年2月22日の日本武道館で同王座に挑戦した。川田にストレッチプラムを決められ、右肩をねじられ〝前年とは逆に〟白いシャツを投入されて敗北を喫した。
ZERO-ONEの旗揚げから団体対抗戦に打って出て、刺激的な絡みでファンを熱狂させた橋本。早すぎる死は本当に残念だった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る













