【平成球界裏面史 近鉄編129】平成28年(2016年)シーズンを最後に近鉄最後のドラ1・香月良太は現役引退を決意した。「まだまだ全然、投げられた」というように、不完全燃焼に終わった感覚を拭えなかった。年齢でいえば34歳。野球選手としてはベテランの域だが一般社会ではまだ若い。当時、3人の娘たちは8歳、5歳、3歳という状況。何らかの仕事をして家族を守ることは必然だった。

 近鉄、オリックス、巨人と続いた現役生活。最後にユニホームを着た巨人は人気球団とあって人生に及ぼす影響力は大きかった。巨人在籍時に巡り会ったことがきっかけで「株式会社ネットワークファッション」に入社。飲食店や商品の企画、PRを行う同社でサラリーマン生活をスタートした。

 最初に担当した仕事は新しい焼酎の営業とPR活動だった。卸問屋から酒販店、飲食店と、都内を始め関東一円から関西、九州と全国を歩き回って営業にいそしんだ。売り込んだ焼酎の名前は「となりのおくさん」という麦焼酎に加え「いまかの」「もとかの」という芋焼酎。ユニークなネーミングが功を奏して契約成立という場合もあったが、香月をもとプロ野球選手と知らない顧客からは冷たくあしらわれることも経験した。

 

 ゆかりのあった神戸・三宮の街では特に営業に力が入った。街のバーから居酒屋、スナック、ラウンジなどを積極的に動き回り、旧知の人物の尽力なども重なって販路を拡大していった。営業で訪れた元近鉄担当記者が経営するスポーツバーでは商品の使用を即断即決。さらに、卸問屋の紹介も得て継続的な商品供給を約束してもらったこともあった。

 現役時代は監督や投手コーチから指名され、マウンドに上がるという仕事だった。だが、営業マンとなったからには「もう、自分から行くしかないですからね。最初は飛び込み営業なんて苦手でしたけど、やるしかなかったですからね。しばらくする頃にはもう平気になってましたね」と成長を遂げた。

 さらには営業を兼務しながら、同社が直営する飲食店舗のマネジャーとして会社に貢献。麦焼酎の「となりのおくさん」のネーミングをそのまま採用した都内の居酒屋のプロデューサーとして企画営業、人材確保までの一切を任せられる立場となった。

 現役時代は大きい体に似合わず、小さい声でボソっと話すイメージではあったが、そんな状態でこれだけの大役は務まらない。「もうね、ユニホームを着ていた頃の僕はいませんからね。やらなきゃどうしようもならないですからね」とハキハキ受け答え、テキパキ行動し仕事をこなす香月がそこに存在した。引退から3年後、令和元年(19年)の頃にはもうバリバリのビジネスマンに成長していた。

 メニューの開発にも積極的で、全国の知り合いのツテを駆使してはバラエティー豊かな地元の素材を仕入れもした。福岡・柳川高時代の後輩が営む畜産農家から直接買い付けた佐賀牛最高級A5ランクのイチボステーキは看板メニューに成長。ドリンクでは「いまかの」と「もとかの」をハーフ&ハーフで注いだ上にソーダで割って、ハイボールにした「修羅場」も開発。ネーミングがバカウケし、顧客のハートをわしづかみにした。

「となりのおくさん」の試飲会(左から)レイザーラモンRG、高野祐衣、ガリットチュウ熊谷と福島、グランジ大、椿鬼奴
「となりのおくさん」の試飲会(左から)レイザーラモンRG、高野祐衣、ガリットチュウ熊谷と福島、グランジ大、椿鬼奴