【平成球界裏面史 近鉄編121】プロ2年目となった平成16年(2004年)初めて一軍に定着し103試合に出場。10本塁打を記録してチームでの立ち位置を確保した近鉄・大西宏明。しかし、6月13日のオリックスとの合併報道に端を発した騒動に完全に巻き込まれ、オフの球団合併・分配ドラフトでは2年目以内の若手ということもありオリックス・バファローズへ移籍することとなった。
平成17年(05年)は開幕戦で3番・中堅として先発出場。合併球団を指揮する仰木彬監督の期待に応え前年を上回る成績を残すかと思われた。だが、夏場以降に成績が下降線をたどりシーズントータルでは103試合に出場し打率2割4分1厘、6本塁打、23打点と数字を落とした。中村勝広GMが監督に就任した平成18年(06年)は故障の影響もあり79試合の出場にとどまるも、オリックスファンからの認知度は定着しており、近鉄時代02年ドラフト同期の坂口智隆らとチームの盛り上げ役を担った。
平成19年(07年)の開幕はベンチスタートだったが、同僚の坂口の不振により1番・中堅で出場する機会が激増。近鉄二軍時代に師匠と仰いでいた鈴木貴久二軍打撃コーチの命日である5月17日のソフトバンク戦では、鈴木さんのヒッティングマーチが鳴り響く中で和田毅から同点2点適時打を放った。
大西は「今日は鈴木さんが打たせてくれました」と両目に涙をためた。このシーズンは一時、4割を超える打率を残し1番として完全に定着したかに見えた。だが、6月以降になると調子を崩した。元来、左キラーとしての定評があったものの、スタメンでの結果を残せず9月に登録抹消されると、シーズン終了まで一軍に戻ってくることはなかった。
最終的に83試合に出場し打率2割4分7厘、4本塁打という成績。得意だったはずの左投手に対しての打率も低下した。1番打者としての起用が多いにも関わらず、先頭打者としての出塁率が伸びない中、得点圏打率が3割8分9厘という不可思議な現象が起こった。
平成19年(07年)オフの12月17日には横浜・古木克明との交換トレードで移籍。平成20年(08年)はオープン戦から不調が続き活躍の場はイースタン・リーグが中心となっていった。だが、二軍では打率5割3分8厘というレベル違いの数字を残し4月終盤に1軍に復帰。復帰後は6月11日のオリックス戦で金子千尋から3ランを放ち古巣に恩返し。移籍後、爪痕を残した。このシーズンは自己最多の105試合に出場。打率2割7分という数字を残した。
平成21年(09年)は移籍2年目で横浜の選手会副会長に就任。ただ、シーズンに入ると大不振に陥り、一時は打率1割を切る低空飛行となった。かつては俊足の外野手として鳴らしたが守備で出場したのはわずか18試合。シーズントータルでは44試合の出場にとどまり打率1割4分1厘、0本塁打、6打点という数字に終わった。
平成22年(10年)は36試合の出場にとどまり10月1日に戦力外通告を受けた。そして、11月10日に西武ドームで開催された12球団合同トライアウトに臨むこととなった。















