【第71代横綱 鶴竜力三郎の軌跡 一生懸命・音羽山親方自伝(4)】2001年9月29日。私はウランバートル発の飛行機に乗り、関西空港を経由して羽田空港に到着しました。空港にはモンゴルで1度会っていた旭鷲山関が車で迎えに来てくれた。車内にあったテレビでは、その日に行われていた曙関の断髪式の映像が流れていて、ずっと見入っていた記憶がある。やがて車は東京・墨田区の井筒部屋の前に着きました。

 旭鷲山関から「頑張れよ」と言われて車を降りると、部屋のおかみさんと体の大きな男性が出迎えてくれた。てっきり、この男性が師匠の井筒親方(元関脇逆鉾)だと思っていました。次の日の朝になって、おかみさんからローマ字で「お疲れさんでございます」と書かれた紙を手渡され、その言葉で親方にあいさつするように言われたのですが…。目の前には、思っていたのとは違う人がいる。

 その時になって、ようやく「この人が親方だったのか!」と自分が勘違いしていたことに気付きました(笑い)。最初の男性は部屋のマネジャーさんだったんですね。その翌日からは初めてまわしをつけて、部屋の稽古場で四股を踏んだり、すり足をしたりしました。稽古でも日々の生活でも、最初に苦労するのは言葉の壁です。

 親方は、モンゴル語と日本語で書かれた絵本のようなものを用意してくれた。イラストがあるのでとても分かりやすく、最初は日本語を覚えるのにすごく役立ちました。他にも分からない言葉があれば、何でも兄弟子に聞いていましたね。ただ、厳しいルールもあった。半年間ぐらいは、部屋からの外出は禁止。近所のコンビニにも、必ず兄弟子と一緒に行くのが決まりでした。

 そのころはモンゴルから多くの子たちが大相撲に入ってきたけれど、親方からは会うことも遊ぶこともダメだと言われていた。自分の国の言葉を話したくても話せないし、聞きたくても聞けない。もう24時間、日本語だけ。でも、かえって言葉を覚えるためには良かったと思います。ずっと聞いているうちに、なんとなく言葉の意味が分かってくるんですね。

 その代わり、親方はモンゴルにいる家族との連絡用に、携帯電話を持たせてくれました。当時は携帯電話を持てるのは三段目ぐらいになってから。入ったばかりの新弟子が持つことなど考えられない時代でした。ただ、電話代が高すぎて、とても気軽には使えない(笑い)。5000円分のプリペイドカードを買っても、話せる時間は10分ぐらい。電話をするのは正月や旧正月など、限られた時だけでした。

 こうした環境だったこともあって、日本に来てから1年たつころには、難しい言葉以外ならだいたい理解できるようになりました。