【第71代横綱 鶴竜力三郎の軌跡 一生懸命・音羽山親方自伝(2)】1996年秋場所で旭鷲山関(※1)、98年初場所では旭天鵬関(※2)が新入幕を果たして、モンゴルでは日本の大相撲が大人気になりました。テレビのスポーツニュースや新聞でも取り上げられるブームの中、中学生だった14歳の時に親が自宅で衛星放送を見られるようにしてくれた。日本との時差は1時間で、幕内の取組は午後3時ごろから。学校から家に帰ると、いつもテレビで中継を見ていました。
当時は曙関や武蔵丸関もいましたが、今ほど力士が大型化していない時代でした。印象に残っているのは、3代目若乃花関や寺尾関。体が小さい人や細い人が大きい人に勝つ姿を見て「ああ、自分も相撲をやってみたいな」と思ったんです。少年時代から、いろいろなスポーツをやってきたけれど、格闘技は小学校の部活動でテコンドーを1年やったぐらい。
モンゴル相撲は子供同士の遊びでやる程度で、あまり好きではありませんでした。モンゴル相撲の大きな大会は年に1回しかなく、試合時間も当時は1時間ぐらい相撲を取り続けることがあった。大相撲は年に6場所あるし、勝負の決着がつくのも早い。小さい人でも大きい人を倒せるし、子供なりに「自分にもチャンスがあるんじゃないか」と感じたんですね。ちょうどそのころ、八角親方(※3)がモンゴルまでスカウトに来ることを知って応募したんです。
選抜の試験はモンゴル相撲の大会形式で、応募資格は14歳から16歳。100人ぐらいは参加していたと思います。最初の予選は10人ずつを1つのグループにして総当たりで対戦する。14歳だった私は身長173センチぐらいで体重はせいぜい61、62キロ。体が細くて、モンゴル相撲の本格的な経験もないから、歯が立たない。5勝か6勝すれば次の段階に進める中で、4勝しかできずに敗退してしまいました。
しかも明らかに年齢をごまかしている参加者が何人もいた(苦笑い)。どう見ても16歳じゃないし、バキバキの体で18、19歳にしか見えない人もいました。当時、子供の身分証は顔写真がなかったので、応募の段階でごまかせたんですね。結局、そういう人たちは後から年がバレて、失格になっていました。
最終的に保志桜、保志光、光龍が勝ち残って選ばれました。予選で負けてしまった私は、とても残念な気持ちになりました。その後も何とかして大相撲に入る方法はないかということは常に考えていた。父がいろいろな人に声をかけて聞いてくれたけど、よい返事はありませんでした。それでも諦め切れず、私は日本に向けて手紙を書くことになった。そのうちの1通が、入門へとつながることになりました。
※1 元小結。モンゴル出身初の関取。
※2 元関脇。現大島親方。
※3 元横綱北勝海。現日本相撲協会理事長。













