【第71代横綱 鶴竜力三郎の軌跡 一生懸命・音羽山親方自伝(3)】2001年4月。15歳で高校1年生だった私は大相撲に入門する夢をあきらめ切れず、日本へ向けて手紙を出すことにしました。まずは自分でモンゴル語の自己紹介やスポーツ歴、入門への意気込みなどを書いた。それを大学教授の父の同僚だった日本語の先生に翻訳してもらいました。手紙に記した体のサイズは身長179センチ、体重78キロ。実のところ、体重は70キロもないぐらいでした。
その時は、ちょっとでも大きいほうがいいのかなと思っていた(笑い)。ただ、全くの“ウソ”を書いたわけじゃありません。当時は育ち盛りで、身長がすごい勢いで伸びていた時期だったんです。だから、体重も「入るまでに太ればいいや」というような感覚だった。手紙には自分の写真を貼って、日本の2か所に国際郵便で送りました。
1通の送り先は相撲雑誌の編集部で、そこからは「こちらは相撲部屋ではないので、入ることはできません」という返事が来ました。もう1通は日本相撲振興会に届き、そこの関係者の方が相撲協会へ手紙を届けてくれたんです。その時に、ちょうど協会にいたのが師匠になる井筒親方(元関脇逆鉾)だったそうなんですね。「実は親方、こういう子から手紙が来ているんですが、どうですか?」という話から始まって、やがて入門へとつながっていった。
もちろん、それは後から聞いた話で当時は手紙を出したきり、返事を待つしかありませんでした。そして、1か月ほどたった5月ごろに突然、自宅に電話がかかってきたんです。でも、電話口の向こう側から聞こえてきたのは日本語で、何を言っているのか分からない。女性の声だったので、おそらく井筒部屋のおかみさん(※)だったんだと思います。
会話にならないので、そこからメールでのやりとりになり、向こうからは「すぐに日本に来てください」と連絡が来ました。でも、こちらはまだ学校があるタイミング。モンゴルでは9月が新学年で、6月までは高校1年の最後の学期があるので、そこまでは終わらせたかった。そこで「秋ごろまで待ってください」とお願いをしました。
日本へ旅立つ前には、モンゴルへ帰省していた旭鷲山関に呼ばれて、父と一緒に会いに行きました。井筒部屋と旭鷲山関の大島部屋は、おかみさん同士の仲が良かったこともあり「モンゴルへ行ったら、会ってきてほしい」と頼まれていたようです。旭鷲山関からは「ものすごく大変だよ。できるのか? やれるのか?」と念を押され、私は「頑張ります」と覚悟を伝えました。
その年の9月下旬。私はわずかな着替えを詰め込んだバッグ1つを持って、ウランバートルから日本へ向かう飛行機に乗り込みました。
※ 井筒親方の妻・福薗杏里さん。












