【第71代横綱 鶴竜力三郎の軌跡 一生懸命・音羽山親方自伝(1)】大相撲の第71代横綱鶴竜として活躍した音羽山親方(40)の新連載「一生懸命」がスタート。16歳でモンゴルから来日し、地道に努力を積み重ねて番付の頂点にまで上り詰めた。白鵬、日馬富士、稀勢の里らライバルたちと渡り合った技巧派横綱が、これまでの土俵人生を振り返る。

モンゴルでも人気のバスケットボール(写真は白鵬)
モンゴルでも人気のバスケットボール(写真は白鵬)

 1985年8月10日。モンゴルの首都ウランバートルで私は生まれました。大学教授の父と母、3つ年上の姉の4人家族(※)。暮らしていた家は日本で言う2DKのアパートで、居間と寝室と台所、あとはトイレ付きの浴室があるだけ。小さいころは家族一緒に同じ部屋で寝ていました。

 モンゴルでは平均的な暮らしで、それほど裕福な家庭だったわけではありません。大相撲に入門してから「父親が大学の先生」と言うと、周りから「ボンボン」「金持ち」と言われたけれど、そのたびに「なんでだろう?」と不思議に思っていた。大相撲に入門した理由の一つが、お金を稼いで親孝行をしたかったから。本当に“ボンボン”だったら、わざわざ日本にまで来ていません(笑い)。

 少年時代は、とにかく体を動かすことが大好きでした。父もスポーツが好きだったけど、体が丈夫ではなかったので学問の道に進んだ。だから、生まれた子供が男の子ならスポーツ選手にさせたい夢があったようです。私は小学校の部活動でテニスやテコンドーを習ったり、部活以外の遊びではバスケットボールやサッカーに熱中したりしていました。

 特にバスケは、小学校に通っていた90年代は(米プロバスケットボール)NBAでシカゴ・ブルズのマイケル・ジョーダンが一番輝いていた時代。そのころは自宅で衛星放送が見られなかったので、友達の家まで行って夢中になって観戦しました。中学校に上がると、部活でもバスケをやるようになった。ただ、バスケットシューズは高価で、なかなか買えなかったんですよ。

 仕方なく“パチモノ”のシューズを履くんですが、すぐに破れてダメになってしまう。何度も親に頼み込んで、ちゃんとしたバッシュを買ってもらったのは高校生になってから。すごくうれしかったことを覚えています。でも、当時は「バッシュ狩り」があって、知らない所には怖くて行けなかった。日本でも似たような問題が起きていたことは、後になってから知りました(苦笑い)。

 小学生のころは将来、バスケ選手になりたいと思っていた時期もあった。ただ、現実的には無理だということも分かっていました。米国に生まれていれば本気で夢を追っていたかもしれないけれど、モンゴルではプロの選手として食べていくことはできませんから。そうした中、日本の大相撲との出合いが、自分の進む道を決定づけることになりました。

※父・マンガラジャラブさんはモンゴル国立技術大教授。母・オユントグスさん、姉・ボロルさん。