五輪出場は就職のための学歴
1972年8月、ミュンヘン五輪レスリング・グレコローマン100㎏以上級出場を経て、10月31日の赤坂プリンスホテル『桂の間』で日本アマチュア・レスリング協会の八田一朗会長、中央大学レスリング部の関二郎監督同席の上で全日本プロレス入団会見に臨んだ鶴田友美は「プロレスは僕に最も適した就職だと思い、監督と相談の上、尊敬する馬場さんの会社を選びました」と挨拶した。
この挨拶は当時のプロレス関係者を驚かせた名言として知られている。それまでのプロレス入りは「団体への入門」だったが、鶴田は「会社への就職」と言ったのである。徒弟制度的だった日本プロレス界に一石を投じる言葉だったのだ。
隣で聞いていたジャイアント馬場は、驚きつつもプロレスに中大法学部のエリートが就職するようになったと思うと悪い気はしなかったという。
だが、その一方で、これがのちには鶴田=サラリーマンレスラーというマイナスイメージを生むことになってしまう。
実際、鶴田にとって全日本入りは就職以外の何物でもなかった。バスケットボールを辞めてレスリングを始めた時点で「五輪に出場してからプロレスラーへ」という未来図を描いていたというのだ。
「将来、プロレスをやるためにバスケットボールに見切りをつけてレスリングに転向したんですけど、幸いにもオリンピックに行けたから箔が付きました」と鶴田から直接聞いたのは佐藤昭雄である。
佐藤は69年7月に16歳で馬場の弟子になり、70年5月に日プロに入門した馬場の秘蔵っ子。デビュー前から馬場の付け人を務め、当時はキャリア2年の新鋭だった。鶴田にとってはすぐ上の先輩に当たるが、年齢的には2歳下ということもあって、心を許せる存在だったのだろう。
中大レスリング部主将で鶴田の同期だった鎌田誠は「鶴田は〝レスリングでオリンピックに出て、箔をつけてプロレスラーになるんだ〟ってことを言っていましたね。それは本音だったと思いますよ。重量級の選手が少ないグレコに絞ったのも、佐々木さんの薦めもあったと思いますけど、どこに行ったらオリンピックの代表になれるかというのを自分なりに考えたんじゃないですか? 賢い奴ですから(笑)。プロレスラーになることを意識してか、後輩を捕まえて中大のレスリング道場でスープレックスの練習をしていましたよ(笑)」と振り返る。
鶴田のライバルだった磯貝頼秀(ミュンヘン五輪レスリング・フリー100㎏以上級代表)も「僕らの時は青田刈りの時代ですから、今より早くて大学3年生の3月までに内定をもらわないと就職先がなかったんです。それに僕らの時はニクソン・ショックで就職難だったんですよ。だから僕はオリンピックに出る時点で、試験も受けて就職が決まってました。石油会社に入ったんですけど、採用人数は前年の3分の1という状況でしたね。あと教員になる道もあったんですけど、オリンピックのために教員採用の実習に行けなかったんですよ。鶴田はオリンピックに向けての合宿の時に〝将来、どうするの?〟って聞いたら、その時点で〝プロレスに行く!〟って言ってましたよ。逆に鶴田に〝お前の方がジェスチャーがうまいからプロレスに向いてるんじゃないの?〟って言われたりして」と笑う。
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相撲界とプロレス界が激しい鶴田争奪戦
プロレスラーになるのを前提にレスリングを始め、ミュンヘン五輪代表の肩書きを得た鶴田だが、196㎝、100㎏を超える恵まれた身体はプロレス界だけでなく、相撲界からも注目され、高砂部屋がミュンヘン五輪の前から動いていた。同郷・山梨甲府出身の元小結・富士錦が部屋付親方(第14代尾上親方)を務めていたからだ。
その他にも時津風部屋、二子山部屋、さらに2つの小部屋が勧誘していた。実家の生活費と親方株を保証するという破格の条件を提示してきた部屋もあったという。
「4年生の頃、まだオリンピックに行く前の時期に〝桝席の招待状が来たから付き合ってくれ〟って言われて相撲を観に行ったことがありますよ。どこの部屋だったかは憶えていませんけど」と言うのは鎌田だ。
プロレス界では新日本プロレスのアントニオ猪木がいち早く目を付けていたし、相撲関係者から誘いの手が伸びていると聞きつけた日本プロレスの芳の里(長谷川淳三)社長は、相撲界に強いコネを持つ九州山(元出羽海部屋の力士で、当時は日プロ役員)に命じて獲得に向けて動いていた。
鶴田はミュンヘン五輪終了後に九州山に誘われて日プロの後楽園ホール大会を視察に訪れたが、そこで鶴田に声を掛けたのが当時ベースボール・マガジン社の編集顧問を務めていた森岡理右である。
森岡はスポーツタイムズのプロレス担当記者時代に馬場と親しくなり、当時は馬場のブレーンのひとりだった。また、スポーツタイムズ以前には東京タイムズの相撲担当記者として二所ノ関部屋の大鵬と仲良くなり、後年には天龍源一郎を全日本に入れている。つまり鶴龍の2人をスカウトした人物なのだ。
鶴田獲得に関しては、森岡夫人の実兄が日本アマチュア・レスリング協会強化委員の野島明生だったことも大きかった。
野島は早稲田大学レスリング部のグレコ重量級で活躍した人物で、当時はレスリング・マットやレスリング用品を扱うオリンピック・プロダクツという会社の社長を務め、全日本が旗揚げしてからは全日本の選手のトレーニングウェアなどを手掛けるようになる。そんな関係もあって野島も鶴田の背中を押した。
森岡は2017年8月11日、老衰のため83歳で亡くなったが、生前、鶴田が全日本入団を決めた舞台裏を「鶴田に〝これから野島の家に行って飯を食うんだけど、一緒に行かないか?〟と誘って、すき焼きを食べさせながら〝日プロに行っても先が見えているぞ〟とか、猪木の悪口を吹きまくってやったんだよ(苦笑)。2回ぐらい飯を食わせたと思うけど、方向性を〝猪木じゃないよ、こっちだよ〟と全日本に向かせたわけだ(笑)」と話してくれた。
森岡、野島に口説かれる中で「自分のような大きい体の人間を育ててくれるのは馬場さん以外にいないだろうし、人間的にも頼り甲斐がありそうだ」と感じた鶴田は、日本アマレス協会の八田会長の仲介で馬場と会うことを決意する。野島は八田会長の秘書的存在でもあった。
鶴田が八田会長の仲介によって馬場と初めて会ったのは72年10月7日。それは日本テレビが全日本中継開始の前煽りとして夜8時から過去の名勝負のVTRと9月20日にハワイのホノルル・インターナショナル・センター(現在のニール・ブレイズデル・センター)で収録した馬場vsザ・シークを『ジャイアント馬場熱戦譜』という番組名で放映した日でもある。
鶴田が全日本入りを決めたのは八田会長の自宅で馬場と初めて会った時、大きな靴の中で寝ていた小さな猫を「この猫は鶴田君みたいな顔をしているな」と抱き上げた時の馬場の笑顔に心を動かされたからだという有名なエピソードがあるが、兄の鶴田恒良は「猫だか何かが馬場さんの靴の中で寝ていたっていう話はちょっと聞いたことがあるし、〝相撲の廻しより、パンツの方がいいよな〟って話はしていましたよ」と笑った。
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