【プロレス蔵出し写真館】今からちょうど57年前、1968年(昭和43年)2月16日、後楽園ホール大会で興味深い出来事があった。
ジャイアント馬場とのコンビでインタータッグ王座を保持、当時〝若獅子〟と称されたアントニオ猪木がなんとレフェリーとして登場したのだ。猪木がレフェリーを務めるのは、もちろん初めてのことだった。
日本プロレス「ダイナミック・シリーズ」開幕戦が予定されていたこの日、記録的な大雪が前日に降ってプロレス界にも甚大な被害を与えた。
来日する外国人レスラー、キラー・バディ・オースチン、ハーリー・レイス、バロン・シクルナ、ディック・マードック、マスクマンのテネシー・レベル(正体はマイク・パドーシス)の5人は羽田空港に着陸できず、札幌千歳空港に変更されたのだ。
「天候のためとはいえ、ファンのみなさんの期待を裏切ったのは申し訳ない」と日本プロレス協会は、3月8日の後楽園大会で16日の入場券を使えるよう、また都合がつかない人には入場料の全額払い戻しの措置をとった。
この日のシリーズ第1戦を中止とし、無料で特別試合を行うことを決定した。
平井義一協会長、レフェリーの九州山がリングに上がり「外人選手が不参加で…」というあいさつに、不安な表情の観客は「代わりにジャイアント馬場対吉村道明が対戦します」と発表されるや「ホーッ」という喚声を上げた。急きょ、約2年ぶりの対決が決まった。
セミファイナルは〝ヤマハ・ブラザーズ〟山本小鉄&星野勘太郎組VS高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)&ミツ・ヒライ組。そして猪木はセミとメインを裁いた。
ところで、猪木のレフェリーで思い起こされるのは74年12月8日、新日本プロレス、愛知・刈谷市体育館で行われた藤波辰巳(現・辰爾)と小沢正志(後のキラー・カーン)で争われた第1回カール・ゴッチ杯決勝戦だ。猪木がレフェリングをすることで特別な大会という付加価値がついた。
また、78年9月19日には大阪府立体育会館で行われた〝遺恨試合〟タイガー・ジェット・シンVS上田馬之助でも、特別レフェリーを務め、ロープブレークを無視して上田にクロー攻撃を仕掛けるシンを蹴り飛ばすなど〝らしさ〟全開で主役の座を奪ってしまうこともあった。
さて、初レフェリーに臨んだ猪木は、セミファイナルでそつなくこなしメインに臨んだ。
試合は静かに始まり、馬場が〝業師〟吉村に対し力で対抗。吉村に16文キック3連発。「馬場、あまりいじめるな!」。観客から声がかかる。吉村はリストロックからキーロック。馬場は必死にロープに逃げて足をロープにかけて「ブレーク」と大声。しかし、レフェリー猪木は「チャンピオンにロープはない」と非情に突き放す。
プロレス評論家の流智美さんは「吉村がロープに逃れると、猪木は馬場にブレークを命じた。馬場は『お前はオレのパートナーだろ!』と言うと、猪木は『今日は違う!』と真面目に答え、場内からドッと笑いが起きた。猪木は吉村に徹底的に味方、えこひいきした」と明かす。
「あの試合は、その日午後10時30分からのテレビ放映で視聴しました。猪木のレフェリーは馬場に厳しいっていうのが、その日のテーマだった(笑い)」(流さん)
試合は吉村のドロップキックをかわした馬場がロープに放り16文キック。吉村は体を沈めてかわすと、軸足に片足タックル。倒された馬場は吉村の首をつかまえて巴投げのように後方に跳ね上げ、自らもクルリと後方回転して押さえ込んだ。
吉村は「馬場が業師であることを改めて見直した。最後のフリップからの回転押さえ込みなんかはオレの領域だよ」と舌を巻いた。
流さんは「あのころは上4人(馬場、猪木、大木金太郎、吉村)と下4人(星野、山本、ヒライ、高千穂)の差が激しい。猪木がレフェリーって、面白さを追求するとそうなりますよね。無難なラインアップだったと思います」と語る。
馬場と吉村、そしてレフェリー猪木を加えた名レスラーの〝競演〟は、2800人満員と発表された観衆の拍手喝采を浴びた(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る













