「東スポ賞」をご存じだろうか。プロレスの祖・力道山が設立した日本プロレスで設けられ、若手レスラーの育成に貢献した表彰制度だ。1974年に「プロレス大賞」が始まる前にあった〝裏賞〟について、24日に東京・豊島区の「闘道館」で、親交の深いザ・グレート・カブキ(75)と初のトークイベント「日本プロレス盛衰史」を開催するプロレス評論家の門馬忠雄氏(85=本紙OB)に聞いた。

 ――「東スポ賞」が生まれたきっかけは

 門馬氏(以下、門馬)(1963年に)力道山が亡くなって、日本プロレスがダメになるんじゃないかという危機感に対して、「若い選手を育てたらいいんじゃないの」という東京スポーツ新聞社の発案から。激励賞として前座の「一番いい試合」に贈られたんだ。巡業についていた担当記者と、リングアナウンサーが話し合いで決めていた。

 ――中身は

 門馬 賞金は東スポが出した5000円で、当時で考えると大きい。あの頃は1年間で平均190試合くらい行われていたが、東スポ賞は毎日、全大会にかけられていたからね。

 ――東京五輪のあった64年の大卒初任給が約2万1000円とされる。〝高額賞金〟は、若手レスラーの懐にきちんと入ったのか

 門馬 それが分からない…。おコメ(金)はきちんと日本プロレスに行っていたけど、賞金は1年間、(日プロの)選手会でキープして、それを年末に分配していたというふうに聞いている。なので選手に対して、直接渡していたわけではないんだ。それがちゃんとレスラーに分配されていたのか、トークショーでカブキに聞いてみたいね(笑い)。(カブキは)「分配されていた」とは言ってたけど、あとはうやむやなんだ。本当に若い選手の支援金になっていたのか、聞いてみたい。

プロレス評論家の門馬忠雄氏
プロレス評論家の門馬忠雄氏

 ――190試合で5000円なら100万円近い…結構な金額だ

 門馬 一番困ったのは、(門馬氏が担当していた)国際プロレス。「何でうちは東スポ賞ないの?」って、レスラーに脅されたんだよ。ネックハンギングもやられたし。「(日プロと)完全に差別じゃないですか」と。言い訳できなかった。なぜなかった? はっきり言えば、国際プロレスで部数が上がるわけではないし…。

 ――「東スポ賞」は誰が獲得したのか

 門馬 当時伸びていたこてっちゃん(山本小鉄)、星野勘太郎、駒秀夫(マシオ駒)、後半は小鹿信也(グレート小鹿)、高千穂明久(カブキ)らが「東スポ賞」の常連だった。みんないい選手。「東スポ賞」の争奪戦を見ていると、「こいつは出てくるな」というのがわかった。そういうレスラーが後にトップになるのを見ると、うれしいもんだよ。その中心にいたのが高千穂だった。

 ――親交の深いカブキの第一印象は

 門馬 初めて会ったのは、彼がデビューした64年10月。言葉はかわしていないが、素直さがあって先輩レスラーからは「坊や、坊や」とかわいがられていたのを覚えている。新しい日本プロレスがスタートする第1号の選手だった。

 ――早くから頭角を現した

 門馬 その後も試合を踏むごとに目に見えて上がっていった。その成長を見ながら、自分も記者として成長していった。そういう意味でも彼に対しての思い入れは強いものがある。カブキは日本プロレスの〝裏の歴史〟を一番知っている人じゃない? レスラーの引き抜きとかね。(アブドーラ・ザ)ブッチャーがテリー・ファンクの右腕をフォークで刺した時(77年12月15日、蔵前国技館)に、(試合後にテリーの)三角巾を用意したのもカブキ。これはプロレスの試合の中でも、一番記憶に残っているよ。