【越中詩郎GET BACK~反骨のサムライ血風録~(25)】2003年3月に旗揚げしたWJプロレスはすぐにうまくいかなくなり、10月にフリーに転向した。そんなとき、俺が大変だと聞いたノアの仲田龍(※1)から連絡があって三沢光晴との間に入ってくれた。

 1984年7月にメキシコで別れて以来。龍を入れた3人がウェスティンホテル(東京・恵比寿)で会って飯を食った。三沢は変わってなかったね。一つだけ言われたのは「横浜文体にしますか? 日本武道館にしますか? チョイスしてください」って。俺が選んだのは横浜。地域的に超満員にならないというのがあったんで「じゃあ、三沢との試合で満員にしてやろう」ってね。

 こっちも奮い立つ材料をもらったよ。その前の11月1日の日本武道館大会に乗り込み、12月6日の横浜文体で三沢とシングルをやった。45年やっているけど、1試合で一番ギャラをもらったのはこの試合だよ。当時の俺は困っていたじゃん。「先にお金を振り込みましょうか?」ってくらいのことを言ってくれた。その後にノアへ上がったのも、このときのことが大きいよね。

橋本(左)とゼロワンマットで再会した(04年3月12日、大館)
橋本(左)とゼロワンマットで再会した(04年3月12日、大館)

 橋本真也のゼロワンも声をかけてくれた。平成維震軍と本隊でバチバチやっていた相手だから意外で「え?」って驚いたよ。あれは愛知県体育館の橋本がらみの試合だったけど、終わってからも試合の興奮が残っていてさ。控室が右と左に分かれているところでもめて、あのバカが20キロのベンチプレスのバーベルを投げてきたんだよ。青柳政司らがビックリし「越中さん、こんなの当たったら死んじゃいますよ! やっていいことと悪いことがありますよ!」って怒って、それでまたもめたんだよ。それにしても普通20キロのバーベルなんて投げられないって。

 だけど、会ったときは過去に何もなかったように「越中さんが頑張ってくれればいいですよ」という感じだったよ。団体を背負うといろいろ困ることもあるし、そのへんは大人になっていた。だから、こっちも気持ちよく上がれたね。橋本を見直したよ。

 ずっと新日本とかでやっていたので、試合があるもんだと思うじゃない。それがフリーだと、お呼びがかかるまでわからない。でもね、レスラーはこういうことが肥やしになるんだよ。人間追い込まれたら必死になってやるしかないわけで、もう開き直りだって。ただ後輩2人が先に亡くなってしまって(※2)。元気で戦っていたことを思うと本当に残念だよ。

 三沢にせよ、橋本にせよ、過去にいろいろな別れ方をしているわけじゃない。それが何年かたって、全部忘れたかのように再会できるって不思議なもんだよな。それは藤波さんもそうで…。 

 ※1 リングアナでノアの取締役渉外部長。14年2月に死去。
 ※2 橋本は05年7月11日に脳幹出血、三沢は09年6月13日に試合中の事故で死去。