【昭和~平成スター列伝】“世界の16文”として一世を風靡した全日本プロレス創設者の故ジャイアント馬場さん(享年61)が1999年1月31日に亡くなってから、今年で25年目を迎えた。没後は何度かの大量離脱劇が起き、現在も全日本は大激震に見舞われている。記者は90年代の馬場を取材して追悼原稿も書いたが、25年という歳月は長いようでとても短かったような気がする。
日本中を驚かせた巨星の逝去から25年。では死去から25年前、つまり今から50年前の馬場はどんな状況下にあったのだろうか。72年10月に全日本を旗揚げしてから3年目の74年、唯一無二の存在として全日本のトップに君臨しており、力道山ゆかりの世界ベルトを継承したPWFヘビー級王者として「黄金時代」を築いていた。
74年1月23日にはNWA世界ヘビー級王者ジャック・ブリスコとPWF王者の馬場がダブルタイトル戦を行っている。このシリーズは「NWAチャンピオン・シリーズ」と銘打たれ、史上初めて現・前・元のNWA世界王者3人(ブリスコ、ハーリー・レイス、ドリー・ファンク・ジュニア)が勢ぞろいした豪華なもので、全日本が勝負をかけたシリーズでもあった。本紙は1面で決戦の模様を伝えている。くしくも馬場はこの日が36歳の誕生日であった。
『馬場は虎の子のPWF王座を失うのか。NWA世界王座をもぎ取って世界の2冠王となるか。23日夜、超満員(7700人)長崎国際体育館でゴングが鳴らされた。11分5秒、必殺のジャンピングネックブリーカードロップで先制した馬場は、王座奪取へ猛ラッシュ。しぶといブリスコは2本目の9分16秒、宝刀の足4の字固めで1対1の引き分けに持ち込んだ。3本目、またもやブリスコの足4の字固め地獄にはまった馬場は、粘りに粘って逆回転してリング下に転落。3分40秒、両者リングアウトとなり、馬場は試合を優勢に進めながら、あと一歩決め手に欠き、王座は守ったものの悲願のNWA王座奪取はならなかった。馬場は「自分としては楽勝の試合だと思った。今までキニスキー、ジュニア、レイスと歴代のNWA王者と戦ってきたが、彼らに比べればそれほど迫力、強さは感じられなかった」と語った』(抜粋)
これが全日本国内初のNWA王座戦だった。翌24日広島では前王者のレイスがブリスコに挑戦。日本マット史上初の外国人選手同士によるNWA世界ヘビー級王座戦が行われ、時間切れ引き分けに終わっている。ブリスコはその後もわずか1週間の間にザ・デストロイヤー(28日、名古屋)、ドリー(29日、大阪)と引き分け、ジャンボ鶴田(30日、日大講堂)の挑戦を退けて王者のまま帰国した。まさに豪華そのもののシリーズだった。
その後、馬場は同年12月2日鹿児島でブリスコを撃破して悲願のNWA王座を奪取。日本人として初の快挙を達成した。馬場は79年と80年にもレイスを破って通算3回、NWA世界ヘビー級王座に君臨している。
黄金期は長く続き、最前線から一歩引いた90年には天龍源一郎らの大量離脱を経験するも、社長として三沢光晴ら四天王の台頭を促して団体を再建した。くしくも没後25年目、大激震に襲われている王道マットを馬場はどう見ているだろうか。残された選手たちには全日本の金看板だけは守り抜いてほしい。 (敬称略)













