【多事蹴論81】「青い目をしたサムライ」はなぜブラジル名門クラブからのオファーを断ったのか――。ブラジル1部サージFCでプレーしていたラモス瑠偉は1977年にジョージ与那城に誘われてJSLの読売クラブ(現東京V)に加入。ブラジル時代はDFとしてプレーしていたが、高い技術力を評価されてストライカーに転向。ゴールを量産し、チームの躍進に貢献した。80年代半ばから司令塔として君臨し、89年に日本国籍を取得すると、日本代表にも選出され、エースナンバー10を背負った。
そんなラモスが読売クラブで得点王やアシスト王を獲得。大きな存在感を示し、エースとして地位を固めつつあった80年後半にブラジル1部の名門サンパウロFCから獲得オファーが届いたという。読売クラブにブラジル人スタッフ(メンタル担当)として加入していたマルコ氏がラモスのプレーぶりに驚き、母国に戻ってサンパウロと契約した際、クラブ幹部に「日本に素晴らしいブラジル人選手がいるんだ」とラモスの獲得を進言したという。
そこでサンパウロ側はラモス獲得を検討し始めた。特にブラジル出身ながら日本で覚醒した異色の選手として注目したという。80年代のサンパウロはFWカレカやFWミューレル、MFシーラス、DFロナウダンらブラジル代表選手が多く在籍していた屈指の人気チーム。それだけに一流選手になることを夢見ながらもブラジルではメジャーになれなかったラモスにとっては千載一遇の好機であり、母国に“凱旋”となるはずだった。
しかしラモスは「読売(クラブ)にいたスタッフを通じてサンパウロから話はあったよ。でも行かなかった。それだけだよ。なんで? 日本でサッカーをやってた方が良かったから。あんまり良い話じゃなかった」。関係者らによると、ラモスは日本人女性と結婚し、日本の生活に順応していたことに加え、年俸が5000万円を超えていたこと(※ブラジルは半額以下)。さらに主力扱いではなかったことなどから名門からの“オファー”を断ったという。
実際、ラモスは読売クラブからの勧めもあって日本国籍を取得するために動き出していた時期。ブラジル復帰を断念した後の89年11月に日本への帰化が決まった。さらに90年には横山謙三監督率いる日本代表に初選出されると、キリンカップ制覇に貢献。92年に日本代表に初の外国人指揮官としてハンス・オフト監督が就任すると、同年にアジアカップ(広島)を初制覇に導いた。93年に発足したプロサッカーのJリーグでもV川崎(現東京V)の10番として、初代王者に尽力した。
選手キャリアを終えるとき「最初はお金のために日本に来たけど、日本人になって日本サッカーに恩返しがしたかった」と振り返っていたが、ラモスがブラジル復帰を決断していたら、日本の躍進はなかったのかもしれない。 (敬称略)












