1974年にスタートした東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」が、今年度で節目の50回目を迎える。その選考に1回目から携わってきたのが、本紙OBでプロレス評論家の門馬忠雄氏(85)だ。選考委員として、昭和のプロレスから現在に至るまで数々の名レスラー、名勝負を見届けてきた“生き証人”が、独自の目線でプロレス大賞を振り返る。ジャイアント馬場さんとアントニオ猪木さん、さらにプロレスの価値観を変えた、マスクマンの本当の評価とは――。
――プロレス大賞が始まったきっかけは
門馬氏(以下、門馬)当時は、すごく人気があった日本プロレスが分裂して、(1972年に)新日本プロレスと全日本プロレスができた。その結果として、プロレス全体の人気がちょっと落ち込んだんだ。それで73年にはオイルショックがあって、社会全体が落ち着かない雰囲気になった。そういった時代背景の中で危機感があって、なんとかしなきゃいけないなと、機運を高めようというのがスタートだった。我々も「いいことだ」と賛成したし、周りにも賛成してもらった。
――74年度の1回目は猪木さんが最優秀選手賞(MVP)を、馬場さんは最高殊勲選手賞を受賞
門馬(猪木さんは)当然。ただ、馬場に関しては、担当記者の中に「(賞が)何もなしだとまずいんじゃないか、全日本が北を向く(機嫌が悪くなる)んじゃないか」という空気感はあった。
――2回目は馬場さんがMVPを受賞した
門馬 人間性も含まれてたんじゃないかな。前年が猪木だったから、今年は馬場にあげようと。両巨頭のどちらかにしないと、と業界全体のバランスを取る形になった。当時はそういった空気感を読んでいたね。
――その後は8回目まで、猪木さんが6回、馬場さんが2回と2人がMVPを独占した
門馬 馬場はなくてもいいって言ったら変だけど、私は猪木が8回目までずっと独占してよかったと思っている。というのも、この時の馬場はもう力が落ちていたんだ。一番よかったのは日本プロレスのときで、会社(全日本)をつくった時はもう下り坂だったから。
――2人が独占した背景には、選考委員で全日本派と新日本派の争いも
門馬 当然あった。馬場と猪木をどう扱うかは神経を使った。ただ、記者たちは推薦理由をしっかり出して、本当に真剣に討論したんだ。だから、かなりみんな熱っぽかった。1回目からガチガチ。それに、おコメ(賞金)もちゃんと出したから、選手たちの目も熱かったね。当時のレスラーは、技能賞をもらってみんな一番喜んだんだ。自分が認められたってことだからね。最優秀選手賞は馬場、猪木、ジャンボ(鶴田)がいるから、取れっこないし(笑い)。
――流れを変えたのが82年度の9回目でMVPを獲得した初代のタイガーマスク(佐山聡)だ
門馬 彼は素晴らしかった。何といっても、「体が小さくても商売ができる」と、日本のプロレスのスタイルを変えたから。すごい人だと思う。馬場は身長が180センチ以下のレスラーなんて認めてなかったけど、タイガーマスクが出てきて、馬場の意識が変わったくらい。技術、スピードのレベルが高い。プロレスラーは大きい人たちだという概念を全部壊した。彼の登場が日本のプロレスの分岐点になった。
――印象深いMVPは
門馬(90年度の)大仁田(厚)と(2002年度の)ボブ・サップ。この2人にはあげたくなかった。「何で最優秀なんだ?」と猛烈に反対した。個人的には今思い出しても腹立たしい…。サップはレスリングを知らない。時代背景では、総合格闘技人気でサップに注目がいっていたし、大仁田は電流爆破マッチが話題になって、そういう空気感にのみ込まれた。あとは文句ないけどね。
――ご自身は50回目で「プロレス大賞」選考委員を卒業する
門馬 勝手にルールはつくるし、プロレスは本当に不思議な競技。だけどこうやって振り返ると、時代の流れで、プロレスは生き物だなと実感するよ。だから時代背景と社会の空気感を反映している。自分は62年間見ているけど、いまだにわからないよ。プロレスほど難しいものはないんじゃないかな。















