【昭和~平成スター列伝】前々回はプロレスの祖・力道山が豊登とのコンビでアジアタッグ王座10度目の防衛に成功した試合(1961年12月14日)を報じた。その後、力道山組は62年2月3日、日大講堂ではリッキー・ワルドー、ルター・レンジ組の黒人コンビに王座を奪われ13度目の防衛に失敗。当時では珍しく挑戦者組の暴走ファイトに怒った観客が暴動を起こし、警官隊50人が出動する大騒動に発展。力道山がマイクで鎮静を呼びかけるほどだった。
昭和後期には観客による多くの暴動が起きており、昭和20年代後半にも力道山がシャープ兄弟に敗れた際に暴動が起きているが、プロレス界ではこの試合を最初の“大暴動”とする説が強い。
「1対1で迎えた決勝ラウンドは両軍必死の攻防。力道山はレンジのヒザを痛めつける。代わったワルドーは反則パンチ。レンジはバックドロップを狙うが、力道山は河津掛けで必死にこらえる。代わった豊登へ『トヨ。コーナーへ行くなよ』との力道山の注意もむなしく、ワルドーの頭突きをもろに受けた。さらにレンジがバックドロップ。これがうまく決まってフォールに成功。タイトルは黒人外国人組に移動した。試合後の日大講堂は空前の大混乱。観客がレンジ目がけてイスを放り投げると、仕返しされて頭を切る。怒った観客はイスを振り回してワルドーとレンジを追い回し、ついに警官50人が出動して制止に当たった。2、3階席からはミカン、パンから中身の入ったウイスキーのビンまでが無数に飛び、試合後30分も収拾がつかなくなった。リング上では力道山がマイクでアナウンス。『近日中にタイトルを必ず奪い返す』と伝えると、これで乱闘していたファンもやっと納得してリング外の大騒動は収まった」(抜粋)
観衆は超満員の1万人(主催者発表)。会場のあちこちでは新聞紙に火を放つファンも現れたとも伝わっている。“燃える闘魂”アントニオ猪木の時代の新日本プロレスは不透明な結果や不法乱入などに怒ったファンが暴動を起こすことはしばしばあったが、昭和30年代前半ではまれに見る出来事だった。
外国人組が観客に暴力を働いたことも原因の一つだったが、当時の力道山は敗戦が許されないほど「絶対的な存在」であり、プロレスファンによって「神格化」されていたのである。
結局、12日後の同15日、日大講堂で行われたリターンマッチでは力道山の空手チョップが爆発して王座奪還に成功。力道山はその後も豊登とのコンビで王座を防衛(1度陥落)を続け、63年12月15日に不慮の死を遂げるまで王座を死守し続けている。 (敬称略)













