【プロレス蔵出し写真館】〝テキサスブロンコ〟テリー・ファンクが死去した。79歳だった。
2019年に愛妻ビッキー夫人を亡くし、ふさぎがちだったというテリーが、21年11月に認知症の治療を続けていると複数の米専門メディアが報じた。夏から故郷・米テキサス州アマリロの生活支援施設に滞在していたが、介護付きホームに移動して生活していると報告されていた。
亡くなって、レスラー、関係者が追悼する声明を発表。テリーとハードコアマッチで戦ったミック・フォーリー(カクタス・ジャック)は、テリーの娘・ブランディーさんから知らせを受けたとして、X(旧ツイッター)でテリーとのツーショット写真を公開した。
そして、「彼は私の指導者であり、アイドルであり、最も親しい友人の一人でした。彼は私がこれまで見た中で最も偉大なレスラーでした。テリーと彼の友人、家族、そして彼を愛したすべての人に神のご加護がありますように。親愛なる友人、安らかに。あなたと知り合えて光栄でした(抜粋)」と追悼した。
フォーリーは13年にWWE殿堂入りを果たし、セレモニーのインダクターをテリーが務めるなど公私にわたり親交があったという。2人は日本でも何度か戦い、95年8月20日のIWAジャパン「ワンナイトデスマッチトーナメント」決勝戦(川崎球場)でも激闘を展開した。
ところで、テリーの二女ブランディーさんは、83年6月に東スポがテリーの自宅があったアマリロ郊外キャニオンを訪問した際、ビッキー夫人、長女ステーシーさんと迎えてくれた。11歳のブランディーさんはパパ・テリーにベッタリ(写真)。頬にキスされたテリーはデレデレだった。
83年8月31日に蔵前国技館で最初の引退試合を行ったときに家族も帯同。兄ドリー・ファンク・ジュニアとのコンビ、ファンクスでスタン・ハンセン&テリー・ゴディ組と対戦し、テリーがゴディを回転エビ固めでフォールして有終の美を飾った。引退式で「サヨナラ」、「フォーエバー」とマイクで連呼。感動的なフィナーレとなった。
ところが、控室に引き揚げると関係者、報道陣が殺到してごった返した。ブランディーさんら家族はテリーを待っていたが、控室は大混乱。家族に危害が及ぶと判断したテリーは、ブランディーさんを抱き上げると松葉杖を振りまわし、大声を上げて周りの人を追い払った。
皆、ほうほうのていで逃げ出したのを記憶している。
さて、テリーは70年(昭和45年)7月26日、ドリーとともに日本プロレスに初来日を果たした。今から53年も前になる。兄とは正反対で、感情を前面に出すファイトぶりは粗削りながらもイキのいいレスラーを印象付けた。翌年12月、ファンクスは〝BI砲〟ジャイアント馬場&アントニオ猪木のインタータッグ王座に挑戦。3本目、馬場をダブルアームスープレックスで投げるシーンは名場面と言っていいだろう。王座を奪取してベルトを逆さに巻いたテリーの姿も印象深い。
馬場の全日本プロレスには旗揚げから協力。77年の世界オープンタッグ選手権のアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク組との試合がファンの感動を呼び、人気が爆発。追っかけギャルやチアガールまで登場したのも懐かしい。
のちに明かされた、81年のハンセンの全日移籍劇をテリーが仲介した話は意外に知られた話だろう。ハンセンがブルーザー・ブロディのセコンドに就いて初登場する6か月も前から移籍が決まっていたのには驚かされたが、テリーがハルク・ホーガンとも契約寸前で、ドタキャンされて弟分のディック・スレーターとホーガンの宿泊先に乗り込んだ話には驚愕させられた。ホーガンは不在で事件は起こらなかったが、テリーの気の荒さを表すエピソードだろう。
個人的にはテリーに突き飛ばされたのが、いい思い出となっている。
あれは、81年11月1日、後楽園大会でブロディにドリーが挑戦したインターナショナル選手権を取材したときのこと。ブロディにセコンドのバック・ロブレイが加勢して、ドリーの首にチェーンを引っかけ鉄柱に巻きつけた。ベストポジションをキープしてカメラを構えると、後ろから強く押す者が…。
入社したころ、先輩カメラマンに「東スポのカメラマンは必ずベストポジションで撮影すること。そこがベストポジションだと思ったら、絶対他社のカメラマンを前に入れるな。そのポジションを奪われるな!」と教えられていた。
腰を落として足を広げて踏ん張り、後ろから押す力に対抗した。あまりにしつこいので後ろを振り返ると、それはドリーの救出に駆け付けたテリーだったのだ。「アッ!」と力を抜いた瞬間、突き飛ばされ客席に転がった。反則裁定が下り、ブロディは客席になだれ込んで暴れながら、私の体を跨いで引き揚げて行った。
踏まれなくてよかった…と心底ホッとしたものだ。
全盛期のファイトを見れてよかった。ご冥福をお祈りします(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る














