〝テキサスの荒馬〟の本当のすごみとは――。プロレス界のレジェンドでWWE殿堂者のテリー・ファンクさんが死去した。79歳だった。多くの外国人レスラーと交流があった全日本プロレスの和田京平名誉レフェリー(68)が、〝不屈のテキサス魂〟を振り返る。
テリーさんの名を一躍、日本中に知らしめたのが、1977年12月15日に蔵前国技館で行われた「世界オープンタッグ選手権」の最終戦だ。テリーさんは兄ドリー・ファンク・ジュニアの「ザ・ファンクス」で、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク組と激突。直前の公式リーグ戦でジャイアント馬場、ジャンボ鶴田組が勝利して単独トップに立っており、ファンクスが優勝するには「史上最凶悪コンビ」に勝つしかない状況だった。
試合はブッチャーがテリーさんの右腕をフォークでメッタ刺し。シークも凶器攻撃を連発して、プロレス史に残る壮絶な死闘となった。テリーさんは持ち前のガッツで凶悪コンビの反則攻撃をしのぎ切り、決死の反撃。ついには根負けしたシークがジョー樋口レフェリーに暴行を働き、ファンクスが反則勝ちで優勝をもぎ取った。この死闘を機に、テリーさんの人気が爆発。宿泊した都内のホテルに熱狂的なファンが押しかけるほどだった。
和田レフェリーは当時、全日本プロレスのスタッフで死闘を観客席から見ていた。「衝撃だったね。すげーなと思った。フォークを受けるテリーにね。今なら大変な問題になっているよ。抗議、抗議で、今ならテリーもブッチャーも試合なんてさせてもらえない。あの時代に合った、ぎりぎりのファイトだった」と指摘する。
伝説の死闘は蔵前国技館大会のメインイベントで行われた。本来なら日本代表の馬場&鶴田がトリを務めるところだが、異例の外国人決戦となった。これに和田レフェリーは「あれは馬場さんのアイデアではなくて、自分のアイデア。自分がこうやりたいと全日本にぶつけてきたんでしょ。それが成功しただけ。俺とブッチャーをやらせろという感じ」と舞台裏を明かす。ブッチャーとの血だるま抗争は、何とテリーさん自身が望んだものだったという。
「普通じゃ考えられない、外国人同士なのに。あんなの(死闘)は誰だって嫌がるでしょ。テリーは自分が日本人だと思ってやっていた。そんな気持ちだったから、ああいうファイトができたと思う」。和田レフェリーによると「あんなえぐいレスラーはいない。やられっぷりのすごさだよね。勝つのはお兄ちゃん(ドリー)に譲っているし。自分が勝とうとはしていない。やられてもお客さんを喜ばせた。そういううまさはピカイチだった」。あえて自身が受けにまわり、最後の3カウントは最愛の兄に譲っていたという。
和田レフェリーは「テリーの試合はほとんどジョー樋口さんが裁いていた。元気なころのテリー・ファンクの試合を裁きたかった。あのころに戻れるなら、ぜひレフェリングさせてほしいのがテリー・ファンクです。夢かなうなら、もう一度裁きたかった」と言い、〝不屈のテキサス魂〟を追悼した。












