荒馬の功績は――。プロレス界のレジェンドでWWE殿堂者の〝テキサスの荒馬〟テリー・ファンクさんが死去した。79歳だった。
 
 日本では兄ドリー・ファンク・ジュニアとの「ザ・ファンクス」で人気を集めた。1977年12月15日の全日本プロレス「世界オープンタッグ選手権」でのアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク戦(蔵前国技館)が、あまりにも有名。宿敵ブッチャーのフォーク攻撃で腕から大流血したが、ガッツと闘志で耐えしのぎ、優勝を手にして日本中のプロレスファンを感動させた。

 一方で、世界的にはハードコアファイトを得意とするデスマッチファイターとして人気を博した。悪党レスラーとして戦うことも多く、中でもWWE殿堂者のミック・フォーリーとは何度もデスマッチで対戦。フォーリーが後に「ハードコアレジェンド」となるきっかけを与えた。

 WWE入団前のフォーリーは「カクタス・ジャック」として日本のIWAジャパンで活躍したが、1995年8月の川崎球場大会で行われたデスマッチトーナメントではテリーさんと決勝で激突。壮絶な死闘の末にテリーさんを下し、デスマッチファイターとして〝覚醒〟したとされる。このデスマッチトーナメントは、日本プロレス史に残るカルトな「伝説」となっている。

 フォーリーは自身のX(旧ツイッター)に「彼は私の指導者であり、アイドルであり、最も親しい友人の一人だった。彼は私が見た中で最も偉大なレスラーだった」などと投稿し、師匠の死をいたんだ。

 また、テリーさんの必殺技は代名詞の「スピニングトーホールド(回転足首固め)」が有名だが、意外にも空中殺法も得意としていた。40~50代になってもトぺ・スイシーダやムーンサルトプレスを披露して、観客を沸かせた。突貫ファイトのイメージとは裏腹に、受け身の巧みな試合巧者でもあった。ベテランになると、前出のフォーリーら若手レスラーの挑戦を頻繁に受け、次世代の育成にも貢献した。それは日本の団体参戦時にも同様で、メジャー、インディ問わず日本の若手選手とも対戦した。

 こうした数々の功績に、世界最大団体・WWEのCCO(最高コンテンツ責任者)の〝ザ・ゲーム〟トリプルHは自身のXに「世界中の都市で毎晩、テリー・ファンクは私たちビジネスとファンのためにリングにすべてを残してくれた。私たちの業界のアイコン(象徴)。私の思いはテリーの家族、友人、ファンとともにある」と哀悼の意を示した。WWEスーパースターの〝キング・オブ・ストロングスタイル〟中邑真輔も、自身のインスタグラムのストーリーにテリーさんの訃報を伝えるWWE公式ホームページを掲載し追悼している。