【プロレス蔵出し写真館】今から41年前の1981年(昭和56年)6月7日、グレート小鹿がプロモートして全日本プロレスの北海道・幕別町営球場特設リング大会が行われた。

 メインに登場するジャイアント馬場は、臨時控室となったリング運搬用トラックで待機していた。

 すると、セミファイナルで大木金太郎戦を終えて引き揚げてきたザ・シークが馬場と遭遇。何を思ったかシークは近くに設置されていたゴミ箱を手にすると、馬場に向かって放り投げた。あらゆるゴミが散乱し、異様な匂いが充満するという、迷惑千万な行為だったが、なぜかクスッとしてしまう風景だった。

 さて、〝アラビアの怪人〟シークが「まだ見ぬ強豪」だったころ、専門誌ではザ・シャイクと表記され、プロレス名鑑や少年誌には火を吹くイラストが掲載され、当時の少年ファンはそれを信じ妄想した。

 日本のファンに〝動く姿〟が初公開されたのは69年9月12日、ロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムで行われた馬場の海外初防衛戦。インターナショナル王座にシークが挑戦し、日本テレビが録画中継した。

 落ち着きなく動き回り、敷物をコーナーに置いてアラーの神に祈りを捧げるシーク。試合が始まると、凶器の万年筆で馬場を突きまくり、1本目をキャメルクラッチで先制した。今ではユーチューブで視聴できるが、流血させられたシークが指で額の血をぬぐい、その指をなめるというシュールなシーンもある。

 シークが、大物扱いの特別参加として初来日が発表されたのは71年8月6日。馬場、アントニオ猪木とのインター、UNへの連続挑戦が発表され、猪木との初対決にファンは大いに盛り上がった。しかし、シークは病気を理由に来日中止となり、〝鉄の爪〟フリッツ・フォン・エリックに変更された。

 待望の初来日が実現したのは翌72年9月。猪木、馬場が去った日本プロレスに特別参加し、24日天下とはいえ、いきなり坂口征二を破ってUN王座を奪取するという大物ぶりを発揮した。

 ところで、シークが日本でブレークしたのは、なんといっても77年12月15日、蔵前国技館での「世界オープン・タッグ選手権」だろう。シークはアブドーラ・ザ・ブッチャーと組み、ザ・ファンクスと対戦。テリー・ファンクの右腕にフォークを突き立て、いたぶった。泣き叫ぶテリーが、満を持して反撃する姿に観客は大興奮。テリー人気が爆発し、「世界最強タッグ決定リーグ戦」と名称変更され、翌年から暮れの風物詩となった。シークの功績は大きかった。

 シークは81年の暮れを最後にしばらく来日が途絶えたのだが、83年に海外出張で各地区のプロレスを取材した本紙カメラマンは、かつてシークの行動に閉口した、とんでもエピソードを教えてくれた。

 6月20日、米ケンタッキー州レキシントンで、ランディ・サベージのICW世界ヘビー級王座に挑戦するシークを取材した彼は、取材を通じて顔見知りだったシークと旧交を温めた。

 あるとき、シークは「ねずみを捕まえたので今日、お前の(ホテルの)部屋を貸してくれないか?」。そう頼みごとをしてきたという。OKして、ルームキーを渡した彼は、取材を終えて部屋に戻るとその惨状に仰天した。

 ベッドは乱れ、バスルームはびちゃびちゃ。

 シークが捕まえたねずみとは、アリーナ・ラッツ(レスラー目当てのグルーピー=業界の隠語)のことだった。部屋をラブホ代わりに使用され、部屋を貸したことを後悔したがあとの祭り。懐かしそうに、そう語ってくれた(敬称略)。