【門倉健 7球団奮投記~行けばわかるさ~(3)】聖望学園で3年間、高校野球に打ち込んだ僕は最後の夏、エースとしてマウンドに上がり、埼玉県予選で決勝に進出。相手はライバルの春日部共栄でした。

 聖望学園が勝てば初の甲子園出場となるだけに学校はすごい盛り上がりです。いつもなら埼玉県の決勝は県営大宮球場で行われるのですが、この年は改装中だったこともあり、決勝戦の舞台は西武球場(現ベルーナドーム)でした。埼玉生まれ埼玉育ちの僕は子供のころから西武ライオンズのファン。清原さん、秋山さん、渡辺久信さんらが活躍していた強いライオンズに憧れていましたから西武球場で先発としてマウンドに上がれるのはうれしかったですね。

 春日部共栄には春の県大会、春の関東大会とも決勝で敗れていましたから僕ら3年生はみんな「打倒!春日部共栄」という気持ちで一致団結していました。春日部共栄という宿敵がいたからこそ、みんな必死になって練習していましたし、チームとしてもグングン成長していたんです。

 試合は聖望が先制しましたが、後に日本ハム、ヤクルトで活躍し、現在侍ジャパンの内野守備・走塁兼作戦コーチを務めている城石憲之に同点本塁打を浴びると終盤に勝ち越しを許し、そのままゲームセット。僕たちは甲子園出場にあと一歩まで迫りながら、夢のままで終わってしまいました。先制していい流れをつくってもらったのに、最後抑えることができなかった悔しさ。同級生もたくさん応援に来てくれましたし、申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。

 それでも春の関東大会で宇都宮学園、国士舘の強豪2校を完封したこともあって僕は1991年のドラフト候補として名前が挙がるようになりました。埼玉新聞で地元期待のドラフト候補として花咲徳栄の品田操士投手とともに写真入りで大きく取り上げられたこともあり、周囲の期待もどんどん大きくなっていきます。ドラフト当日も学校はザワザワ。僕もドキドキです。

 でも結局、この年のドラフト会議で僕の名前が呼ばれることはありませんでした(品田投手はドラフト3位で近鉄に指名されました)。今考えれば当時はストレートも130キロ台でしたし、プロのレベルには達してなかったと思います。

 それでも大学の何校かから声がかかり、僕は聖望学園・岡本監督の母校である東北福祉大に進学することを決めました。東北福祉大は当時、多数のプロ野球選手を輩出。89年ドラフトでは横浜が1位指名したハマの大魔神・佐々木主浩さんと西武が3位指名した大塚光二さん、90年ドラフトでは前阪神監督の矢野燿大さんをはじめ4人、僕が指名されなかった91年ドラフトでも金本知憲さんや斎藤隆さんら5人が指名されるなどまさにプロ野球選手養成所のような感じだったのです。

「将来はプロに行きたい」。ドラフトで指名される投手になるのが目標だった僕はピッチングにさらに磨きをかけるため東北福祉大野球部の門を叩いたのですが、そこで待っていたのは想像をはるかに上回るハードな練習だったのです。