【門倉健 7球団奮投記~行けばわかるさ~(2)】埼玉生まれ埼玉育ちの僕は親父の影響で物心ついたころから野球をやっていました。学校から帰ったらランドセルをぶん投げてバットとボールを持って近くの公園に行く。そんな子供でした。
小学校3年のときに近所の少年野球チームに入ったのですが、最初はセンターやファーストを守っていて投手を始めたのは小学校5年生から。身長が高かったので「投手をやってみれば」と周りから勧められてやってみたんです。小学校6年生のときには身長は170センチありました。
中学でも野球部に入り投手をやっていましたが、サイドスローやスリークオーターで投げてました。それが投げやすかったんです。僕は今、身長191センチですが、中学3年生のときには190センチまで身長が伸びていた。学校で1番大きかったですね。そのころはあんまり目立つのが好きじゃなくて、背中を丸めて小さくなって行動するようなタイプ。緊張する性格で人前に立つのも好きじゃなかったので周りから「野球大丈夫? 投手で真ん中に立って」と心配されるくらいだったんです。プロ野球選手になる人って子供のころの武勇伝的エピソードがあるじゃないですか。でも僕の場合は、ビシビシ抑えたという記憶もない。チームも全然強くなかったし、ほんとうに普通の野球少年だったんです。
僕が本格的に野球に取り組むようになったのは高校で聖望学園に入ってからです。勉強があまり好きではなかったので中学を卒業したら大工になろうと思っていたんですが、中学の1年先輩に強引に誘われて進学したんです。僕は聖望学園の9期生で当時の野球部はまだそんなに強くなかった。だけど岡本幹成監督(昨年退任するまで聖望学園野球部を37年間指導。チームを甲子園に5度出場させ、2008年の選抜大会では準優勝に導いている)はすごく熱心に指導される方で「体が大きいんだから上から投げろ」と言われてオーバースローに転向。1年夏には背番号18をもらってベンチ入りもしました。
2年の秋には背番号「1」をつけたんですが、肩を壊してしばらく投げられなかった。そのときに岡本監督にエース番号を剥奪されそうになったんです。そこで初めて本気で“練習しなきゃ”と思いましたね。冬場のトレーニングを死ぬ思いでやりましたし、自主的に朝練もやった。すると3年春の大会で関東大会準優勝。そこで「これは甲子園に行けるかもしれない」と思うようになったんです。
だけど僕たち聖望学園にとって大きな壁がありました。それは同じ埼玉県の春日部共栄高校。春の県大会、春の関東大会といずれも決勝で敗れたんです。春日部共栄には現在、侍ジャパンの内野守備・走塁兼作戦コーチを務めている城石憲之(元日本ハム、ヤクルト)がいた。「春日部共栄を倒して絶対に甲子園に行く!」。気合十分で夏の予選に臨んだ僕たちは埼玉大会を勝ち進み、決勝に進出。あと1つ勝てば甲子園。もちろん決勝戦の相手は“宿敵”の春日部共栄でした。












