〝燃える闘魂〟アントニオ猪木さん(享年79)は、「いつ何時でも」スーパースターだった。昨年10月1日に死去した猪木さんの関西後援会まとめ役で、猪木信者の中でも特に親密な関係にあった高島英三郎氏(59)が〝ファン目線〟で燃える闘魂を振り返る。第3回のテーマは女子プロレス。「ストロングスタイル」を貫いた猪木さんは、女子プロレスをどう見ていたのか――。

 高島氏によると、猪木さんは年代によって、全く違う考えを語っていたという。新日本プロレスと全日本プロレスの抗争が全盛期を迎えていた昭和50年代、女子プロレス界ではジャッキー佐藤とマキ上田のタッグ「ビューティ・ペア」が一世を風靡した。そのころに発売された猪木さんの著書「君よ苦しめ、そして生きよ」の文中では「女子プロレスは、プロレスリングだとは認めていません」と記していた。

 さらにその後、女子プロレスの記事を扱っていたプロレス専門誌を自身の団体選手が控室で読んでいた際に、それを見つけた猪木さんは大激怒。選手から雑誌を取り上げ、床に叩きつけるほど女子プロレスを認めていなかったとされている。

 会食をともにし、プロレスについて話す機会も多くあった高島氏は「プロレスリングのあり方についてエンターテインメントというよりも、格闘技、マーシャルアーツとして〝極める〟という考えだったのでは」と猪木さんの考えを代弁した。

 そんな猪木さんの概念を変えたのは、1995年4月に2日間、北朝鮮・平壌のメーデースタジアムでわれた「平和の祭典」だ。

 現地で観戦した高島氏によると、初日に行われた北斗晶、ブル中野組対豊田真奈美、吉田万里子組の一戦は、この興行で最も盛り上がった試合だったという。「北朝鮮では女子が奇抜なウィッグとコスチュームで殴ったり、蹴ったりするのがものすごく目新しく見えたようで大盛り上がりでした」

 さらに初日終了後、高島氏は衝撃のひと言を耳にしたという。猪木さんの口から「北朝鮮は女子プロレスがメインだったな」との言葉が出たのだ。

 これを機に、女子プロレスの魅力を理解した上で、評価するようになったという。2002年には、WWE退団後のチャイナを「ジョーニー・ローラー」として新日本マットに呼び寄せ、蝶野正洋とのシングルマッチを敢行し、大きな話題を呼んだ。自身を認めてくれた猪木さんに対し、チャイナも16年に亡くなるまで「私を救ってくれた恩人」と慕い続け、感謝の念を忘れなかった。

☆たかしま・ひでさぶろう 1963年4月10日生まれ。大阪・東大阪市出身。関西外国語大学卒業後、高校教諭として英語を教えている。大学時代にアントニオ猪木氏の関西後援会に入会後、国内外の試合やイベントに足しげく通い、スタッフとして参議院選挙の手伝いやイベント開催にも尽力してきた。