ボクシングの元世界ヘビー級王者モハメド・アリ氏が3日(日本時間4日)に入院先の米アリゾナ州フェニックスの病院で死去(享年74)したことが、世界中に衝撃を広げている。20世紀を代表する英雄の死に米国のバラク・オバマ大統領(54)ら著名人から追悼の言葉が相次ぐ中、1976年6月26日にアリ氏と「格闘技世界一決定戦」で戦った元プロレスラーのアントニオ猪木氏(73=参議院議員)が本紙に手記を寄せ、“哀悼秘話”を明かした。

 アリと初めて会ったのは1976年3月、ニューヨークのプラザホテルで行われた調印式だった。俺は羽織はかま。彼は若かった。不可能を可能にするという触れ込みだった。そして6月26日、決戦の時を迎えた。ボクシングの相手なら展開が見えてくる。でも、そうではない。パンチを目に食らったら目が潰れる。向こうは向こうで準備をしていた。

 試合の翌日、アリは「お遊びでした」と言ったが、彼はそう言わざるを得なかったんだろう。あれは運命づけられた試合。決して偶然じゃない。試合後は酷評だったが、時代とともに変わっていった。

 ゴージャス・ジョージ(1950年代に米国マット界で空前の人気を誇ったスーパースター。オーバーアクションと派手なコスチュームが特徴で、マイクパフォーマンスの元祖とされる。63年に死去)のまねをして昔からプロレス好き。アリの結婚式で招待され、カリフォルニアの彼の家まで行った。アリの家はプール付きの邸宅が並ぶ住宅街にあった。2階建てでゲート付き。ゲートの外に白人の女が一人、アリを待っていた。モテたんでしょうね。

 テーマ曲もアリからもらった(「炎のファイター」=もともとは映画「アリ・ザ・グレーテスト」(77年公開)の挿入曲。アリ氏から贈呈後に「アリ・ボマイエ」のフレーズが「イノキ・ボンバイエ」に変えられ、曲調も大幅にアレンジされた。「燃える闘魂」の象徴曲でもある)。最初聴いた時、そんなに感動するとは思わなかったけど、聴いているうちにどんどん濃くなった。また、IBF(国際ボクシング連盟)は俺が会長になるはずだった。アリ戦の影響は大きかった。

 ボクサーは山ほどいるけど、彼は信念を持っていた。「ボクシング外」という意味で社会的なメッセージを送り続けた。90年の湾岸戦争ではアリもイラクで人質を解放している。彼が出国した後、俺がイラクに入った。ちょうど彼が帰ってくるところで、入れ違いだった。

 95年には北朝鮮で開催した「平和の祭典」に招待した。(北朝鮮入りのため)来日したアリはパーキンソン病の影響で歩けなかった。それまで表舞台には出られず、一切取材も受けていなかった。それが北朝鮮で(カメラマンから)フラッシュをたかれたので、そこで目覚めちゃった。北朝鮮ではフラッシュを止めようがない。彼の従来のパフォーマンスみたいなものがよみがえり、名所にあるすごい階段を一気に上っていた。

 それから、アリは少し回復した。(96年)アトランタ五輪では聖火ランナーをやった。「一歩踏み出す勇気」という部分では本当に良かったのかな。あれがなかったらたぶん、引っ込みっぱなしだったと思う。周りが全部ガードして、表に出さないようにしていた時期でしたからね。

 98年4月4日の俺の引退試合にも来てくれた。その時は一緒に食事はしていない。手は震えていたが、東京で車に乗って移動していると、後部座席でフッフッと拳を動かす。昔を思い出してやっていた。そしてよく手品も見せてくれた。回復する病気じゃない。あとはどう時間を延ばすか。手を動かすことは病との闘いだった。2010年3月にアリの自宅に近いアリゾナの球場を訪れた時に電話をかけたけれど、返事がなかった。

 今年はアリ戦から40周年。6月26日は「世界格闘技の日」に制定され、アリの家族を呼ぶ予定だった。追悼大会については「俺はもういいよ」という思いがある。いろんな考え方をすれば「商売に使うなよ」とね。それはそれだけど「人の名前を消さない」という部分ではイベントも大事。何かが起きた時、新しい一歩を踏み出していく。これは俺の独特の考え方。

 イスラム社会だけではなく「モハメド・アリ」っていう名前は大きい。今後、いろんなメッセージを送っていく時に、アリの遺志、俺の意思を伝えていきたい。

☆モハメド・アリ=1942年1月17日生まれ。ケンタッキー州ルイビル出身。60年ローマ五輪ボクシングライトヘビー級で金メダル獲得。同年プロ転向。64年に世界ヘビー級王座を初戴冠後、イスラム教に改宗して「カシアス・クレイ」から「モハメド・アリ」に改名。74年10月にジョージ・フォアマンをKOした一戦は「キンシャサの奇跡」と呼ばれ、伝説となっている。81年引退。通算戦績は61戦56勝(37KO)5敗。