【熊澤とおる 人生100年時代のセカンドキャリア(20)】西武ライオンズで一軍打撃コーチを務めた2008年の8月。遠征先の宿舎で朝食を済ませ、自室のテレビをつけると、素晴らしい打撃でヒットを放つ選手の姿が映し出されました。大阪桐蔭高の背番号6。それが浅村栄斗でした。興奮を抑えきれず、すぐさまスカウトに電話し「大阪桐蔭の浅村って、めっちゃいい選手ですね。獲ってください」とリクエストしたほどです。

 それですんなり指名が決まったわけではありませんが、縁あって浅村は同年のドラフト3位で西武に入団。09年から二軍打撃コーチに配転された僕は、この“金の卵”と正面から向き合うことになりました。

 実際に目の当たりにして感じたのは、想像以上のポテンシャルの高さと守備の下手さです。いわゆる「打てばいいんでしょ」というタイプで、逆方向への打撃などは受け入れられない。これは一から「プロ野球」というものを教えなければいけないというのが第一印象でした。

 このときに技術指導とは別に用いたのが、元監督で僕の入団時には球団管理部長の肩書で実質的なゼネラルマネジャーだった根本陸夫さんの教えです。その一つに「給料をもらったら、その日のうちに使い切れ」というものがありました。若手の給料などたかが知れているし、寮生なら寝食には困らない。お金がなければ遊びに行けないし、練習するしかなくなる…という考え方です。

 ついでに言うと、20歳を過ぎた若手には「先輩に飲みの誘いを受けて嫌なときは、俺の誘いがあるからと言って断っていい」とも伝えていました。これもベースにあったのは根本さんの教えです。先輩との酒席はダラダラと朝まで続いたり、途中で抜け出そうにも抜け出せなかったりするもの。選手にとっては練習と同じくらい休息も大切で、そのためなら自分が悪役になっても構わないというスタンスでした。おかげで球団内では「熊澤は毎日のように若手を連れて飲み回っている」という妙な噂が立ってしまいましたが…。

 門限破りも基本的には見て見ぬふり。遊んでいても結果が出せるなら何も言いませんでした。その代わり、事前に「●●が遊びに出るらしい」と聞きつけたら、わざと夜間練習を課したりしていましたけどね。二軍コーチは、それぐらい選手と付きっきりにならないと務まらない仕事でした。

 付きっきりの練習という点では、打撃コーチ補佐のポストで一軍復帰した11年に出会った現広島の秋山翔吾も忘れられません。大卒ルーキーで1年目から一軍に定着していましたが、打撃に関しては一から徹底的につくり上げていきました。

 ☆くまざわ・とおる 現姓は中村。1973年9月7日生まれ。埼玉県出身。所沢商高から91年ドラフト3位で西武入団。一軍出場はなく98年に引退。二軍用具係兼サブマネジャーとして球団に残り、2005年オフから松井稼頭央(当時メッツ)の個人トレーナーとして渡米。08年に一軍打撃コーチ補佐として西武に復帰し、日本一に貢献。二軍打撃コーチ、二軍守備走塁コーチを経て11年に一軍打撃コーチ補佐を務める。11年退団。現在は埼玉・入間市で整骨院を営むかたわら、小中学生を対象とした野球塾を運営している。